第1話 「ロケット発射台」
何度目かの氷河期が過ぎ、長い“間氷期”が訪れると、一気に草花が芽吹き、木々が続き、人が定住できるようになった。

ユーラシア大陸の最東端に、浮かぶこの島国は、氷の海を渡っていることにも気付かずに定住し始めた人々の長々と続く系譜によって、その独自の生活を継承してきた。それが、何度目かの大戦が終わり、聞こえはいいが経済立国として、その実完全に平和ボケし、さらにその鈍らに磨きをかけ、傍から見れば低俗かもしれないが、彼らにとってみればそれがそれしかなかったという文化文明が見事に築き上げられたのである。
国破れて山河あり、時代の趨勢による幻か、必然か、何千年という時を経て、人間の本質的な部分がなんら変わりはしないのに、これから語る物語の彼女達は、それでも何か時代の寵児たる煌きを感じさせずにはいられないのである。





 鈴原次郎は、自分の名前がありきたりの域を超えて、もはや時代遅れの賜物であることをさとっていたから、自分の子供、特に美しい妻との間に生まれるであろう愛娘には、特別なキラキラネームをつけてやろうと、もうだいぶ前から考えていたのだった。最初に男の子が生まれ、その次に待望の女の子が生まれたときは、まるで量産品にタグをつけるかのように、簡単にその名前をつけてしまった。有利亜(ありあ)と名付けられたその可哀想な、悲劇の主人公は、小学校に入学すると、周りにも同じようなキラキラネームがぽつりぽつりといることがわかり、父親以外の家族全員を安心させた。

 母親の里美は、専業主婦だった。高校を卒業してすぐに、自動車のインパネを製造する工場に就職したが、半年で辞めてしまった。それからは、東大阪のスナックで働いていた。そこで常連だった地銀の行員だった次郎と出会い、紆余曲折の末、結婚に至った。
ありきたりかもしれないが、彼女の人生は、次郎のつたない告白を受けた瞬間から、折り紙風車のようにカラカラと音を立てて回り始めたのである。兄の亮太が小学5年、有利亜が小学3年のときに、次郎がトラックに轢かれて、その短い人生を終えたとき、里美のありきたりの人生も、終わりを告げた。貯金はあったものの、それを切り崩して、長くて4年程度しかもたないくらいしかなく、どうしても彼女は働きに出る必要に迫られた。当時33才だった里美は、久しぶりに水商売のドアを叩いた。時代はデフレ真っ只中、スナックの給料だけでは足りず、昼は昼で、別のパートをせざる負えなかった。

 元々次郎の繊細な血を引き継いでいた亮太は、この家族の一大事に、現実を逃避し、悪い仲間とつるむようになった。家には帰らなくなり、学校にも行かなくなった。里美は、何度となく学校に呼び出されたが、そのことについて、亮太と話し合うことはなかった。里美にとっては、今が早く過ぎ去ってくれることがなによりであり、息子を立派に教育するまでの余裕はなかった。第一、高校でもまともに勉強してこなかった里美自身が、息子に学校に行って勉強をしろだなんて、とてもじゃないが言えなかった。それでも、里美は、一端の母親として、一般に騒がれてる以上の愛情は、この2人の子供達に注いできたつもりなのである。この、ある意味で大局観のある母親が逆に事態を、これ以上悪化させなかった一番の好材料だったのかもしれない。

 有利亜は、父親の死という事件に際して自分の無力を痛感し、せめて母親に迷惑をかけまいと振舞うようになった。勉強は苦手だったが、懸命に食らいついたし、母も兄もいない夕食でさえも泣きはしなかった。これは非常事態であり、これを乗り越えれば、また何も考えずに笑って生きていける時代がくるはずだと、いつしかそう考えるようになっていた。人は元来楽観的なものである。どんなに苦しい状況でも、心のすべてがそこに浸ることはない。片隅に潜む前向きな材料を拡大するすべを、彼女はこのとき手に入れたのかもしれない。
贅沢などしようがなかった。服は、ほとんどなかった。靴下には穴があいて、それを縫い合わせて、また穴が空いた。文房具も新しいものを買ってほしいと、里美に言うことが申し訳なく、短くなった鉛筆をさらに短くなるまでつかい、消しゴムも、それが消しゴムなのか、なにかのシミなのかわからないくらい粉々に使い尽くされていた。結局、家庭の困窮に直面しても、小学生の有利亜にできることは、それくらいのものだったのである。

 有利亜の一番の楽しみは、学校で親友の千津子と遊ぶことだった。千津子の両親は、自営業で、町のお弁当屋を営んでいた。家に帰っても一人ぼっち同士の有利亜と千津子は、放課後児童クラブでいつも夜遅くまで遊んでいた。男子達がいなくなった校庭に出ては、2人だけの鬼ごっこをしたのだった。有利亜は、足が速かった。千津子は、闇夜を切り裂くその韋駄天に追いつくことができないのがわかっているから、最初にかならず有利亜を鬼にしていた。

千津子は、当時売れていたアイドルグループの「LL-GIRLS」の大ファンだった。有利亜も、最初はそうでもなかったのだが、千津子の影響で、この年頃の少女なら誰しも持ち得る半ば集団パニックにも似た共感性により、LL-GIRLSのファンになっていった。LL-GIRLSの特徴は、その参加人数の多さだった。組織の構造が完全なピラミッド構造になっていて、そのトップにLL-GIRLSと呼ばれる5人のアイドルがおり、その下にAA-GIRLS、BB-GIRLS・・・といった風に下部団体が続いていた。年2回それらのメンバーを入れ替えるために、ファン投票が行われ、それに基づいてチームが再編成されるのである。この下克上システムがファンに受け、今では次々に出される新曲が軒並み、無条件にチャートトップを独占するまでになっていた。

そのLL-GIRLSの中で、千津子が最も好きだったのは、ファン投票で常にトップに輝いていた西島遥だった。すでにグループ活動と平行して、ソロ活動をしており、グループ卒業後は女優か歌手に転身するだろうと見られていた。有利亜も、最初、西島遥が好きだったが、あまりにも千津子が遥の大ファンで、彼女のことを褒めちぎるので、元来の天邪鬼な性格から有利亜は、別のメンバーを応援することにしたのだった。それが、当時高視聴率をたたき出していたHKT(東関東テレビジョン)の「スワンプール・パーティー」に主人公の恋敵役として出演していた蘭堂岬だった。遥が、LL-GIRLSを引っ張るリーダー的存在なら、岬は、おっとりとした独特の雰囲気、周りに流されない、というか周りの状況を察知することができないようなある種疎いようなところのある不思議さを売りにしたメンバーだった。この岬に、有利亜は、自分にないものを見ようとした。彼女にとって、それが初めての個性との出会いだったのかもしれない。ファン投票で選ばれた5人のLL-GIRLSの中で、遥と岬の個性は、秀でているように見えた。そして、その2人のオリジナリティに引き立てられるようにして、残りの3人、山口真紀、田中乙葉、藤原結子の個性が決して同じ方向に伸びることなく、放射状にファン層を獲得していたのである。


 両親共働きで、自営業の一人娘だった千津子は、有利亜とは違って多少の金銭面でのアドバンテージがあった。LL-GIRLSの公式ファンクラブに加入していて、いつも有利亜に会員誌や、自分のいらない蘭堂岬関連の特典グッズをくれるのだった。
「あっちゃん、先月号のFAN-GIRLS(会員誌の名前)。」
こうして、いつも先月号の会員誌を持って帰っては、里美には内緒で、それを見るのが有利亜の楽しみだった。
 午後8時、真っ暗な中、ボロアパートである家に帰ると、いつものように里美が朝に作ってくれている夕食が冷蔵庫に入れてあるのである。それを、手際よくレンジで暖めると、有利亜は、一人でそれに食らいついた。それは、唯一里美と有利亜を繋ぐ、日々のコミュニケーションであった。平日は、有利亜を起こすとすぐに仕事に出かけてしまい、夜も有利亜が眠った後にしか帰ってこないからである。しかし、有利亜は、毎日母が帰ってくるのを知っていた。帰ってきてから、冷蔵庫に冷やしてある缶ビールを一杯飲むのを知っている。それでも、寝たふりをしているのだ、里美の邪魔をしたくないという思いがあった。生かしてもらっているというどこか、自分の非力さと、母への畏敬が、当時の彼女を支配していた。
 その日は、珍しく、ボロアパートに兄・亮太が帰ってきた。黒と茶色の混じった髪色の、その中学1年の兄は、年齢に似合わず、やつれた顔をしていた。不良とつるんでいるのは知っていたが、この辺りの不良とは、一種違う雰囲気のあることは有利亜にもわかる。それは、一言で言うなら、いぶし銀であり、決して生半可な気持ちで道に反れたわけではない人間の決意が伺えるのである。そして、それとは対照的に、そのやつれた顔、特に無残にコケタ頬、あどけなさが残る思春期の顔が同居している、その亮太の表情に、危うさがあることに有利亜は、不安になった。
「おう、今から夕食かいな。邪魔して悪かったな。」
亮太は、そう言うと、有利亜の座っているのとは反対側の、差し向かいの食卓の席へ座った。いつもそこは、里美が帰宅後に息をつく席である。座れる席は、その2席しかない。あとは、物が山積している。
「別に・・・・。めずらしいな。あんたがこんな時間に帰ってくるなんて。」
そっけなく答えた。前に見たのは、駅前のコンビニだった。下校で店前を通るときに、タムロしているのを見かけたのだ。小学5年のときは、確かに遅咲きの不良初心者だったかもしれない。でも、さすがにあれから2年とちょっと。少年の風貌も、不良としての格も、確固としたものを築いていることに、そのとき、一瞬ではあるが、有利亜は気付いたのであった。
「つれへんなぁ。久しぶりに帰ってきたったのに。テレビ点けへんのか?」
そういうと、静かだった部屋にテレビの音を鳴らしだした。
誰も、あんたに帰ってきてほしないわ。学校にも言ってへんのに。

亮太は、そういうと、食卓の上のかつて次郎が使っていた灰皿を手前に置き、タバコにをつけた。学校に行っていないことに対して全く意にも介していないかのように、深い煙の一呼吸のあと、亮太は、テレビの中のバラエティー番組を見、時折笑っては、まるで会話するかのように、突っ込んだりしていた。そのとき、ふと食卓の上のFAN-GIRLSの表紙が目に止まった。有利亜は、しまったと思った。誰もいないと高をくくって、夕食後に、堂々と食卓で読もうと、置いていたのだ。

「なんやこれ?ほぉ、はぁ?これ、LL-GIRLSか?お前、好きなんか?」

亮太は、パラパラとページをめくり始めた。
「ちょっと、勝手に見んな。借り物やねんから。」
有利亜は、雑誌に手をかけようとした。
「あ、ちょっと、まて、これ。」


「え?」


亮太の目が、あるページで止まった。それは、LL-GIRLSの第10回オーディションについてのページで、応募用紙が付属しているページだった。そこに、有利亜の名前が書いてあったのである。

「なんやこれ?お前、オーディション受けんのか?」
「知らんし、こんなん知らん。千津ちゃんや、千津ちゃんが、勝手に書いたんやろ。」
有利亜は、そういうと勢い良く雑誌を奪おうとした。しかし、凄い力で、亮太はそれをさせなかった。
「保証人の欄が、空欄やんけ。」
その応募用紙の保証人の欄には、さすがに千津子は名前を書けなかったのだろう、家族、もしくはそれに準ずる保護者のみがサインすることができる欄に、名前はなかった。
「よっしゃ、俺が書いたろ。俺が、有利亜の保証人や。これで、絶対合格するぞ、はは。」
そういうと、亮太は、鉛筆をとって、凄い筆圧で自分の名前を、精一杯に書いた。と、書いたと同時に、有利亜が、それを奪い取った。
「なにすんねん。」
「誰も、あんたにサインしてほしいなんて言ってないやろ。それに、オーディションなんか受けへんし、第一、そんなん受かるわけないし。」
「応募する前から、受かる話しとる。はは、おもろいな。」
亮太は、その後、風呂に入り、ドロドロだった格好から着替えて、アパートから出て行った。いつでも、気ままな兄が、自由なように見える兄が、羨ましくもあり、憎くもあった。自分は、このボロアパートで、死んだ父親の物が生々しく残る、この思い出の墓場で、一人、監禁状態のような気がしていたからだった。抜け出したいという気持ちは、以前からあった。でも、それは、具体性を帯びない、漠然としたものであり、子供ながらに時間の解決を期待したものだった。しかし、今、完全に埋められた応募用紙を見た有利亜は、自分の鼓動が早くなるのを感じた。塩栗鉄平は、他の男子達と校庭でサッカーをしていた。鉄平は、地域のサッカークラブ「東大阪少年SC」に所属している。チームでは攻撃的なミッドフィルダーをしていたが、実際には何役もこなせるユーティリティプレーヤーであった。始業5分前のチャイムが鳴り、いつものように、教室に急ぐ男子達。鉄平は、いつもここでゆっくりと下駄箱まで歩くことにしている。それは、なんの験担ぎでもなく、いつも遅刻ギリギリでやってくる有利亜と同じタイミングで下駄箱に到着するためだった。鉄平は、有利亜のことが好きだった。そしてそれを特に隠そうともしなかった。ただ、面と向かってそれを言ったことはなく、それでも有利亜には鉄平の気持ちがなんとなく伝わっているような風であった。




「てっちゃん、おはよう。」
その日声をかけたのは、有利亜からだった。
「おはよう。早よ教室いかな遅刻すんで。」
鉄平は、少年の屈託のない笑顔でそう言った。なぜ子供は、なんの後ろめたさも、なんのレバレッジも期待することなく、真にその一瞬を高揚のために費やすことができるのだろうか。そして、それを見て、人間とは本来こうあるべきだと、多くの大人は感じるのである。それが、どうしてか、人間はそのまま成長することはできず、いろんな障壁によりその真っ直ぐの伸長は許されず、非常にいびつにその内面的完成を見るのである。
 その日の5時限分の日本型の詰め込み教育が終わり、いつものように鉄平は、家へ一旦帰り、ユニフォームに着替えてから徒歩で、市営グラウンドに向かうのである。そうして、夕方の6時から8時まで、みっちりライセンスのある指導者の下、ありきたりな練習をする。特に、近年はボールタッチと、コンビネーションに重点が置かれる練習が横行している。そうすることによって、大人になったときに、流れるようなパスワークからゴールを生み出すことができるのだと信じられており、現にそのスタイルは、確立されつつあった。
 練習が終わり、いつものように多くの子供達に対して保護者が迎えにくる。しかし、鉄平にはそれがない。
「鉄平。カレー作ってあるから、それ温めて食べといて。お父さん、今度の練習試合の打ち合わせせなあかんから。」
そういうと、父・健二は、コーチとグラウンドの端で話し始めた。健二は、昔Jリーグのトップチームでプレーしたこともある、プロ崩れの指導者なのである。地元の中学校で体育教師をするかたわら、その中学校のサッカー部の顧問、そしてこの東大阪少年SCの総監督をも取り仕切っている多重苦人間、サッカーの世界で生き、そして死んでいく、家族のことは後回しにして。鉄平の父親評はだいたいそんなものであった。健二は、サッカーに熱中するあまり、妻を顧みず、昨年離婚してしまったのである。そのことについて、鉄平は一方的に健二に責任があったのだと解釈していた。まだ、鉄平は、母親の化身としてしか父親を見れなかったのである。母親と会う機会は、めっきり減ってしまった。鉄平はしばらく、この落胆から立ち直ることができなかった。健二は、その気持ちのブレークダウンをサッカーに転化させてやりたいと思っていた。健二にとって、人生の支柱はサッカーであり、それ以外に方法論を持ち得なかったのである。だから、鉄平は卒業後、別地域にある府内の強豪校に入学することを進められていた。家族ではなくサッカー、健二もそうやって孤独な人生を歩んできたのだし、それしか彼には教えることができなかった。
 帰り道、鉄平は、コンビニの前で有利亜の兄・亮太を見た。そして、その横には、警察官が3人いる。鉄平は、幼いながら不味い場面を見てしまったと思った。亮太と鉄平の目線が一瞬合った。お互いに面識があり、次郎が健在のときには、よく遊んでいた仲であった。すぐに、その場を立ち去り、そのことについては考えないようにした。でも、有利亜の顔が浮かんで、それが遠ざかっていく。彼女の家庭環境と自分の環境の違いに、大きな壁を感じた。それでも、鉄平は、有利亜といっしょにいたいと思っていた。中学校も、いっしょだったらどんなに楽しいだろうかと考えていた。
家に帰ってカレーを温めなおしていると、姉の貴子が学習塾から帰ってきた。貴子は、鉄平とは年の離れた高校1年生だった。貴子の存在は大きかった。時には母親の代理として、時には愛すべき女性として、いつも鉄平は貴子のことが好きだった。そういう意味で、鉄平は生まれ持っての弟気質であり、いつも貴子からは「鉄平のお嫁さんになる人は、絶対年上の人やね」と言われていた。
 亮太の万引きが店長に見つかり、往生際悪く店長に暴行を働いたので、警察に通報された。運悪く、その日履いていたスニーカーの足紋と、別件の空き巣で採取されたそれとが一致した。直ちに里美が署へ呼ばれた。書類送検で済んだが、里美は厳重に注意された。有利亜は、アパートで平然を装って夕食をとっていた。2人が帰ってくると、何事もなかったかのように、ひさしぶりの家族団欒が始まった。

「亮太、あんた、最近何食べてんの?ろくなもん食べてないやろうに。今、作ったるからな。」
里美は、そういうと台所に立った。
「別にいいわ。また、盗んで適当に食べるから、はは。」
「もう、万引きなんかしたあかん。チンピラみたいなことして、世間に恥ずかしいことしたらあかんねん。やるんやったら、もっと大きなことして、お母さん泣かせてみい。
そうやって重苦しい雰囲気を空元気で晴らそうとした。亮太はそれには答えず、有利亜の向かいに座り、話しかけた。
「俺、万引きで捕まってもうてな。もう、知ってるか?そういや、あんとき鉄平見たわ。気まずい顔しとったなぁ。有利亜、明日、説明しといてな。」
「誰が、そんな話するか。」
「そういや、オーディションの紙、もう送ったんか?締め切り、もうすぐやろ?」


この兄という生き物は、なぜ、このように場の空気を読まずに、自分をかき乱すのだろうと、痛いほど有利亜は思った。


「なんや、オーディションって?有利亜?」
「なんでもない。」
「なんでもないことないやろ。おかん、こいつLL-GIRLSのオーディション受けたいみたいやで。俺は、受けたらいいと思う。応援するで、武道館ライブも見に行くで。」
「LL-GIRLS言うたら、あのアイドルのやつかいな。本当なんか?有利亜」

「千津ちゃんが、遊びで応募用紙に私の名前書いただけや。それを、お兄ちゃんがたまたま見つけたもんやから、ちゃかしてんねん。そんな、アイドルなんか興味ないわ。」
千津子は、今日そのことについて、本気だと言っていた。有利亜なら、オーディションに合格するんじゃないかと思っているらしい。どこにそんな希望が見出せたのか、有利亜には不思議で仕方なかった。まだ、小学5年のクソガキがアイドルになんかなれるわけない。そのときは、そういうバイアスが働いた。

 里美は、そのときは「ふーん。」程度にしか答えなかった。でも、そのとき里美には分かっていた、そこに有利亜のわずかな本気が込められていることを。里美にも、同じようなことがあったのだ。彼女自身、高校卒業と同時に、芸能界の門を叩くつもりだった。しかし、貧しかった家庭の事情もあり、しかたなく工場で働きながらその可能性を探ることにしたのだった。いくつかのオーディションを受けたものの結果は芳しくなかった。当時のアイドルは、グループではなくソロ活動がメインであり、枠自体がかなり限られていたのだ。ほんの一握りの本格派しかその門をくぐることが許されなかった。実は、その背後には、大きなアイドル市場への需要が隠れていることを知らずに、業界全体が少数のアイドルに群がっていた。それから数年が経って、大人数グループのアイドルが現れ始める。そうして、そこから序々にアイドルという定義自体が、振動を繰り返しながらあやふやに、いろんなジャンルを包含しながら拡大していくのである。
里美がオーディションを受けていることを、里美の両親は知らなかった。工場勤務とオーディション受験の日々が半年過ぎたころ、それが父親の国吉に露呈した。15歳から佐官職人一筋で来た彼には、そんなちゃらちゃらした業界が気に喰わなかった。娘が、この時期特有の熱病にほだされているのだと思い、きつくオーディション受験を禁じたのだった。人間には、その人間の天職がある。一度就いた職業がそれであり、それに一心不乱に取り組むのが真っ当な人間というものなのである。そうなのに、アイドルなどというものは、歌も、芝居も、バラエティーもやる、それに色恋沙汰までネタにしてなんでもかんでも巻き込んでいく。国吉にとってみれば、それは得体の知れない化物であり、不純な何かだった。里美は、このまま国吉の傘の下で暮らすのが嫌になり、工場を辞め、国吉の娘であることも辞めてしまった。それから、17年間、国吉とは会っていない。母の清子から、最近でも元気に佐官をしていると聞いた。
清子からは、17年間も経ったんだし、夫の次郎も死んだんだから、実家に帰ってきてはどうかという提案が、何度かあった。里美にとっては、それはまだタブーだった。自分から出て行った以上、結論を出さない限り、実家には帰れない。どんなに苦しくても、財務的援助も受けないと決めていた。必ず、2人の子供を、自分だけの手で育て上げる、そして、あの日国吉の下を飛び出した答えを突きつけてやる。そういう思いが里美にはあった。でも、その答えが里美には見つからなかった。今、自分と同じ道を有利亜が向き始めている。里美には、これが何かの兆候であることを敏感に感じることができた。国吉が否定した道を、里美が抉じ開けられなかった門を、有利亜に託すことは、家族に前向きな何かを与えるのではないだろうか?


その日は、ひさしぶりに家族3人が川の字になって寝た。たとえどんなに、不良、不良と世間で言われても、こうして家に帰って来ていっしょに寝る素直さのある亮太、彼は将来どんな人間になるのだろう?どんな人間になったとしても、母を忘れないでほしい。世界がどんなに革変しようとも、この親子のつながりだけは変わらない。
亮太と比べて、有利亜は自分自身だった。まだ幼く、自我形成段階ではあるが、それは間違いなく自分ののようなものを継承している。いつも、帰ってきたときに寝たふりをしているのはわかっていた。家族にだって、気を使うような独立性を里美は、有利亜と同じように持っていた。いつでも、どこでだって生きていくために、いつだって出て行けるように、水面に波紋ひとつ立てずに生きていく。そうやって、自分の外側だけを固めて、内側の空洞を隠しながら生きていくのだ。このままだと、有利亜にまで自分と同じような安い人生を送らせることになる。里美は、布団の中で、有利亜の手を捜し、きつく握り締めた。驚いて目を開ける有利亜。やっぱりまだ寝てなかったのね。

「いい?一回しか言わないから、よく聞いとき。やりたいことはやりたいって言わなあかんねん。そうせな、自分のほしいものがなんなんかわからへんようになる。最後の最後には、自分がなんなんかわからへんようになんねん。
その言葉を、有利亜は時空を超えた声として聞いた。それから何年経とうともその声だけは、今聞いたかのように生々しく再生できる。時代と共に言葉の意味さえ変わるのに、その母の言葉の意味は、変質しなかった。



翌朝、有利亜は決心したかのような目で、里美に言った。
あのな、一回だけでいいねんけどな。オーディション受けてみていい?
里美は笑っていた。布団の中でまだ寝ていた亮太が、突然むくっと起き上がってきて「よっしゃ。」と言った。

「俺が、応募用紙ポスト入れてくる。任せとけ、切手はちゃんと貼るから。」

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