第10話 「心動」
中国のピアニストの卵たちは、幼い手で鍵盤を叩き続け、その研鑽を積む。そして大人をより多く喜ばせた者だけが生き残り、逆にどんなに上手くてもその一線を越えられない“天才”ならプロの門を叩くことはできない。どんな世界でも、社会で人は一定の価値観の基、篩にかけられ淘汰されていく。残った一握りの人達だけが美味い果実を吸うことができ、残りの大勢は、もはやその世界にしがみ付くことさえ許されない。この競争原理を適応する限り、皮肉にも一般化された労働力としての意味しか持たない人間が量産されていく。そこには量産された幸せがあり、そして同じことの繰り返しが平然と死ぬまで続くだけである。果たして、社会の進歩・成長は、ほんの一握りの天才によってもたらされるのか、それともその他大勢の量産品によってもたらされるのか。いや、量産品の中の不良品によってもたらされるのだ。競争原理の最大の利益は、繰り返しの中にある間違いにこそ見出される。皮肉にも秀でたピアニストと言われる者たちは、その間違いと深い理解の均衡に個性を見出せた者たちなのだ。



有利亜が初めてしたキスの感想は、ただ唇の柔らかさだけだった。やけに冷静だった脳が、それでも必死に演算した結果はじき出した答えがそれなら、やはり有利亜の心は上ずっていたに違いない。最初にHARUICHIに抱きしめられたとき、有利亜の心には多少の違和感があって、体が硬くなり悲しくなった。それが二度目にされたときは、まるでタオルで濡れた体を包み込むように、それを正当化してしまった。彼の愛に染まる決心がつき、有利亜の胸元から薔薇が咲き出るように感じられた。自分の想像を遙かに超えた存在として、HARUICHIはそれまで有利亜の心の中で具体化されてこなかった“恋”そのものになりつつあった。
 交際が始まってから二人は少なくとも週に1回は会って、騒音にまみれる東京にあっては静かな場所・静かな時間を選び、お互いがお互いの何たるかを確かめあった。15才の有利亜には、“恋”も“愛”も同じだった。ただ、“好き”とは明確に違う感情が、彼女の中で彼と他のものを区別するときの指標になっていた。有利亜はHARUICHIのことを、正面切って好きだと思ったことは一度もない。ただ違和感のなさが、彼女の抵抗を阻害し、好奇心と稚拙さにより四肢を動かしていたに過ぎない。結局それは、思春期の女の子が抱える典型的な病魔と言ってもよかった。ただ有利亜の場合は、行動の一つ一つが考えることと同義だったから、HARUICHIに恋をするより先に、彼に身を任せていたに過ぎないのである。
 イタリアの高級外車で都内をドライブしたときも、有利亜はこの異様な関係について少しも考えることなく、夜風に流れる髪の黒さに戸惑っていたに過ぎなかった。そして、いよいよHARUICHIが彼女を抱え、大きなベッドの上で長いキスをする。幼い体躯が、早く鼓動する脈動を抑えきれなくて総毛立ち、震え、胸元から真っ赤に染まり始める。有利亜は初めて、男と女の何たるかを知るはめになる。はたから見ればそれが普通でも、また人類の進化史から見て当然の論理の末だとしても、やはりそれはいささか滑稽で三文芝居的で、痛烈に悲劇だった。なぜならそれはその世界で初めて起こったことであり、その世界の裏で轟音を立てながら動く“神の歯車”の存在を肯定するものだったからだ。有利亜は今まで“自分”という存在に疑問を感じたことはなかった。他人に抱かれたからと言ってそれが天地逆になるほど揺らぐわけではなかったが、それでも自分の他にゆるぎない“何か”が存在するという事実を認めざるを得なかった。


 夏が過ぎ秋だった。HARUICHIは軽い風邪になり、仕事をすべてキャンセルして自宅で寝込んでいた。都内でも高級な部類のマンションだが、決して成功しているミュージシャンが住むようなほど贅沢の限りを尽くしているわけではない。彼の私生活は驚くほど地味だった。16才のときに盛岡から上京し、あれから10年が過ぎた。最初は孤独だった東京生活も、次第に志を同じくする仲間が増え、彼らによって彩られたHARUICHIの最高の日々を支える存在になった。でも早すぎた人生のピークは、その後からバランスをとるようにどうしようもない絶望感となって彼を襲っていたのだった。今回も少しだけ体が弱っただけなのに、すぐに不自由を感じ、その閉塞感が増大し、耐えがたいほどの苦痛となって彼の体を強張らせていた。  さっきから鳴っているインターホンの音にも全く反応できず、ただ茫然と天井を眺めていた。きっと有利亜だと、分かってはいるものの、そこで思考が停止する。もはや彼女さえどうでもよくなるくらいの暗闇が目の前に広がっていた。嫌、それは暗闇ではなく壁だ。完全な空間の終わりだ。
「大丈夫?」
合鍵で部屋に入ってきた有利亜が心配そうに言った。それはやっと中学3年生になった幼い少女だった。どこかで買ってきたのか、レジ袋の中にはいろいろと食材が入っていた。
「はる君が元気になるようにと思って、いろいろ買ってきたよ。ほら、鶏雑炊の素。これ今作るから待ってね。どうせ何も食べてないでしょ?」
有利亜もHARUICHIの急激な変化に気づき、そして懸命に対応しようとしていた。あの生気に満ち溢れ、魅力に満ち溢れていた彼は、ほんの数か月で夢遊病患者になってしまっていた。有利亜にも分かっている、風邪がすべての原因じゃないことくらい。部屋は暗かった。ベッドがあるにも関わらず、HARUICHIはソファで横たわっていた。スウェットの上下に毛布がかかっている。力なくソファからはみ出ている彼の足首が気色悪く、有利亜はそれを見ていられなかった。お腹にだけかかっていた毛布を足まで覆ってやった。
「どう?美味しい?書いてある通りに作っただけだから、そんなに不味くはないと思うんだけど。」
HARUICHIは、それをほつほつと口に入れ続けた。機械的だった。そして、突然その銀の匙の手を止めると、目にうっすらと涙を浮かべた。
「なんでこうなっちまったんだろうな。なぁ。」
HARUICHIは有利亜の顔を見た。
「俺さ、解散しなけりゃ良かった。今さらそう思ってんだぜ。ダサいだろ?今まで音楽がすべてだと思ってたんだ。自分のやりたい音楽があって、それだけが唯一の確かなものだったんだ。だけど、そうじゃなかった。そうじゃなかったんだ。そう。俺の人生で一番大切だったのは、バンドそのものだったんだ。あの4人でやることに意味があったんだ。4人だけじゃない。俺たちを支えてくれたスタッフの皆や、友達。それが一番だったんだ。それを俺は。それに気づかなかった。なんでだろうな?終わりだよ。一番大切な時間が終わったんだ。もうこの先何もないよ。なぁ、有利亜ぁ。俺どうして生きていけばいいと思う?」
そう言ったHARUICHIの目を有利亜は見ることができなくて、ただ正面の何もない空間を見つめるばかりだった。そして、精一杯作った笑顔で彼を見返し、その手から匙を取り上げ、両手で彼の手を優しく摩った。
「生きてるよ。はる君は、今だって生きてるじゃない。」
HARUICHIは有利亜にすがるように取りついた。有利亜は、彼の震える肩を摩るように抱きしめた。



 “黄土色の香とエッフェル塔”のプロモーションは全国に及んだ。有利亜達は、週末毎に違う地方へ営業し、自分達のデビューシングルを踊った。新クールから始まるアニメのエンディング曲に選曲されたこともあって、最初はほとんど知られていなかったこの曲も、やがてファンの耳に馴染み、次第に一般の若年層も認知できる水準にまで浸透していった。その手ごたえを感じたのか、メンバー達のやる気も増し、一種の結束力が生まれた。最初はひどく緊張していた田所新菜も最近は皆に敬語を使わなくなった。元来人懐っこい彼女はメンバーから妹のような存在として可愛がられていた。
「あっちゃん、仕事以外のとき何してるの?」
岡山への移動する新幹線の中で、新菜と有利亜は隣同士になった。
「え?学校に行ってるくらいかな。仕事以外って考えられないよ、私仕事するか学校に行くかしかないもん。」
「えー。そんなのつまんなくない?ほら、漫画読むとかさぁ。何か趣味とかないの?」
「んー。ないなー。私、アイドルになりたくて、それしか考えないで東京に来たからさ。じゃあ、逆に新菜は何か趣味あるの?そこまで言っておいて無いとは言わせないぞ。」
有利亜は新菜の頭を指でつついた。
「私はこれっ!」
新菜は、自分の携帯の待ち受け画像を有利亜に見せた。
「かわいいっ!」
それはいわゆる一種の社交辞令だったのだが、新菜は自分の愛犬を褒められて嬉しくなった。
「チャツネって言うんだよ。トイプードルなの。」
「かわいいね。何歳?」
「8才だよ。私が小学校に上がるときにお父さんが買ってきてくれたのっ」
その夜、台風が日本列島に上陸したため、有利亜は東京に帰ることができなかった。メールでHARUICHIにその旨を連絡したが返信が来なかった。彼は、最近はほとんどメールを返さなかった。もうとっくに風邪は治っていたのに。
 急遽泊まったビジネスホテルで、有利亜は本条みゆきと相部屋になった。今までの地方営業のときも有利亜はみゆきと相部屋になることが多かった。同じ10期で仕事も同じことが多かったからだった。いつの間にかできた二人のルールで、部屋に入るとしばらくは自分のブログの更新に専念し、それが先に終わった方からシャワーを浴びる。その日は、みゆきの方が先だった。
「あっちゃん、先シャワー行くね。」
「うん。あ、そうだ今ラジオやってるよね。つけていいかな?」
「あ、うん。」
そう言うとみゆきは、ユニットバスの扉を閉めた。枕元のラジオのつまみを回すと、ちょうどその番組のオープニングだった。それは最近始まったLL-GIRLSの週一の深夜ラジオ番組で、“LL放送室”とは違って毎回3人のメンバーが選ばれて2時間の長時間のトークをするというものだった。有利亜はいつ自分が呼ばれてもいいように、番組の内容を把握しておきたかった。ラジオを持っていない有利亜にとって、こんなときにしかラジオを聞く機会がなかったのだ。
 その日は田中乙葉、吉見瑞穂、生田愛良がパーソナリティーを務めていた。LL-GIRLSの中でもトークに安定感のあるメンバーだけに、この新番組の方向性を決める重要な役割を担っているといって良かった。有利亜は、彼女たちの話し方や、テンション具合、話の話題性などを意識しながら聞いていた。次は自分がその場で話さなければいけないかもしれない。台本を見るだけではわからない、その番組の雰囲気や緊張感を知っておきたかった。番組は淡々と進行し、残り30分程度となった。
「えー、ここで愛良から、番組とは関係ないんですけど、お時間を頂いて言わせて頂きたいことがあるそうです。愛良。」


「うん、はい。」


その愛良の声の調子があまりにも重苦しいものだったから、有利亜も、シャワーから上がってきたみゆきも驚いて顔を見合わせた。
「今日この時間にお時間を頂いたのは・・・。私の過去の行動について、皆さんをお騒がせしてしまっていて、それを、私なりに誤りたくて。」
その辺りまできて、愛良の声には、熱っぽいものが混じってきて、それでやっと泣いているのが分かった。
「ごめんなさい。すみませんでした。週刊誌に載っていることは、事実とは違うこともいっぱいあったんですけど、私がファンの人と食事をしたっていうのは本当のことで、そのことでLL-GIRLSのルールを破ってしまったっていうのは本当に申し訳ない気持ちで一杯で。」
そこでまた、話せなくなり、嗚咽が電波で全国に流れ、空白が埋められた。
「愛良、頑張って。きっと、ファンの人も本当のことを知りたいと思うから、説明できる?」
乙葉がなんとか話した。
「うん。ありがとう。その人と最初に会ったのは、3年くらい前で。その時はまだ私LL-GIRLSに入りたてで、地方公演とかに行かせてもらって、やっとアイドルなんだって実感し始めたときでした。学校の友達の紹介で、何人かの同い年くらいの男の人と会う機会があって、それでその中にその人がいて、その人はLL-GIRLSのファンで、私のことを知ってくれて。私、それでもう嬉しくなっちゃって。こんな駆け出しのアイドルの私を知っていてくれるなんて、本当に本当に、純粋に嬉しくって。それで、その人と会うようになって。私の中では、アイドルとしてその人と会っていたつもりなんです。もっとLL-GIRLSのことが好きになってくれたらいいなって思って。それで、何回か会ったのは事実です。連絡先も交換しました。でも、週刊誌に書かれているような、あんな、抱き合ったりだとか、キスだとか。そんなことはしていません。なんでそんなことが書かれたのかも分かりません。それは信じてください。信じてくださいって言って信じられるものじゃないことは分かっています。でも、それでも、私はそんなことはしてないので。でも、会ったことについては誤ります。これについては、どんな罰でも受ける覚悟があるし、このことでLL-GIRLSを辞めろって言われたら辞めるしかないと思っています。」
有利亜は、それを聞いていて背筋が寒くなった。自分もほとんど同じか、いやそれ以上のルール違反を犯している。その時初めて、彼女は自分の行動の意味を知り、省み、自分の立場の危うさを知った。みゆきは、有利亜が異様な真剣さでその放送を聞いていることに気づいたが、特に詮索はしなかった。これでLL-GIRLSが終わるとは思えなかったし、自分に何か影響があるとは思えなかったから、みゆきは内心愛良に単純な同情を寄せていたに過ぎなかった。


「生田、よく言えたな。頑張ったな。」


その時放送から男性の低い声が流れた。有利亜もみゆきも、それが本郷上一郎だとすぐにわかった。
「まぁ、今回こうやってラジオで生田が説明できたことで、ファンの人もある程度は理解できたと思うし、今の話を聞く限り、生田自身もルール違反をねぇ、完全に認識してやっていたわけではないと思うし。俺もLL-GIRLSには生田の力がまだまだ必要だと思っているから、そんな今回のことでLL-GIRLSを辞めろなんて言うつもりはありません。でも、こうやって事実が発覚した以上ね、何もしないってことはできないわけで、だから俺も考えさせられてな。今から、生田への罰を発表しようと思って、来たんだよ。」
「罰あるんですか」
乙葉が言った。その“罰”という響きだけで、愛良は嗚咽した。

「えーっと。生田は、今から無期限でメディアへの出演はできません。禁止します。テレビとラジオ、雑誌もそうだし、ネットもだめです。公演と、その他のイベントのみ活動できます。」

その言い渡しの意味は、それを聞いていたすべての人にすぐに理解できたが、その罪に対する罰の適正さを理解できるものは一人としていなかった。ひとまず卒業が無くなったことに安堵し、メディアに出られなくなったことに絶句した。
「厳しすぎるよね、いくらなんでも。生田さん、大丈夫かな」
みゆきがそう言ったことを、有利亜は聞いていなかった。すでに彼女の中では、漠然とした利害が天秤にかけられており、そしてその天秤はすでに有利亜に何かを訴えているのだった。




 鈴原亮太は、風が通りを吹きすさぶ中、いつも仕事帰りに寄る食堂で定食を食べていた。最近はちゃんと家に帰るようになっていたので、家と工場をつなぐ道にあるこの食堂で朝飯と夕飯を食べることが日課になっていた。いつも日替わり定食を頼む。白ご飯に、味噌汁。焼魚か揚げ物が主品で、同じ皿に千切りキャベツがあり、たまに副菜のお浸しがつくこともあった。この辺りは町工場が密集している地域で、店はいつも仕事終わりの工員達で賑わっていた。置いてあるテレビでは、誰も見ないバラエティー番組が流れ、時代錯誤の壁にはポルノカレンダーが掛けられていた。隙間風が入り口から始終入ってきたが、店の中央にあるガスストーブがそれと戦っていた。


「はい、これおまけ。」


亮太の机に置かれたのは、小皿に入った肉じゃがだった。それを置いたのは、その店の娘で、亮太よりは3つ年上の西谷由美だった。由美もこの地域でずっと育ってきており、小学校と中学校は亮太と同じ学校を卒業している先輩である。由美はその後、電車で2駅となりの女子高に通い、今はさらに2駅となりの短大の一年生だった。大学はだいたい夕方には終わるから、その後店に出て店主である父親と母親を手伝う日々を送っていた。亮太は、ここに通うまで由美のことは知らなかったが、毎日通う内に次第に打ち解けていき、今ではこうしてその日の“戦利品”を頂戴できる関係になっていた。もっとも、亮太はそれを欲しがったことはないのだが。
「町内でもぼちぼちインフルエンザが流行ってきてるらしいんよ。亮ちゃんも気をつけなあかんで。」
「なんで、そんな心配されなあかんねん。自分の体のことくらい自分でどうにかするわ。」
そういうと亮太は人懐っこそうに笑った。
「偉そうに。もう。そう言えば昨日、LL-GIRLSでなんとかちゃんっていう子が、テレビ出演禁止になったそうやで。ファンの人とデートしたとかなんとか週刊誌に書かれたみたいやって、芸能ニュースでやってたわ。ほんま、すごい人気やねLL-GIRLSって。あんたの妹さんにも影響あるんとちゃうの?」
「なんやそれ。有利亜は大丈夫や。そんなへませえへん。」
「ならええけど。そう言えば、先週亮ちゃん携帯買い換えるって言ってなかった?」
「ああ、買い換えたよ。スマートフォン。ほら、いいやろ?わりとええ値段したわ。」
「まぁ、贅沢して。ちょっと見せて。」
「壊すなよ。」
亮太は、由美にスマートフォンを渡した。それは亮太が薄給を貯めて買ったもので、それでも一型古い特価品だった。
「月額料金が高なるらしいけど、この方がええわ。別に誰とメールすることもないけど、インターネットが見やすいし、ゲームも面白いねん。」
「ふーん。はい。」
由美は、さくさくっとタッチパネルを操作してみたあと、それを亮太に返した。
「ええやろ。まぁ、由美はもともとスマホやったからな。貧乏人の気持ちなんかわからへんやろうけど。」
「私のは、もう古いやつやもん。ぜんぜん使ってないしね。ほら、見てみ。」
「あ」
「へへっ。亮ちゃんのアドレスゲットォ!」
由美の笑顔が弾けて、亮太はその狡さに歯ぎしりした。隣の常連客が、「なんや、いつも仲ええなぁ、ええこっちゃなぁ」と野次を飛ばした。亮太は肉じゃがに手を伸ばし、黙するように頬張った。そのとき、ふと有利亜の顔が頭に浮かび、そして溶けるように消えていった。それは一瞬の夢のようでもあり、亮太はつい自分が睡魔に襲われたのだと勘違いしたほどだった。
「どうしたん?急にぼーっとして。よっぽど悔しかったんか?」
「そうやない。今、急に有利亜のことを思い出してん。」
「ほんま、妹思いやなぁ。どんだけ好きやの。」
「うるさい。噛みついたろか。」
そう言った亮太の後ろから隙間風が吹き、ガタガタと扉の音が店内を騒がせた。
「御馳走様。お勘定、ここ置いておくで。」
「はいよ。」
店を出た亮太は、人通りもほとんどない路地裏をとぼとぼと歩いて帰った。




 有利亜は、外灯が照らす住宅街の舗装道路を歩いていた。この道を真っ直ぐ行けば、HARUICHIのマンションに着く。右手にはコンビニの袋、左手には鞄を持っていた。その道は、車の通りがあるだけで、夜中に歩いている人はまったくなかった。有利亜は、コートにマフラー、ニットの帽子をしていたが、それでも少し寒かった。季節外れの大寒波が列島を、関東を荒らしていた。


「鈴原さん。ちょっと待ってくださいよ。」

ちょうど次の外灯までたどり着けば目的地というところで、有利亜は思いがけなく呼び止められた。しかも相手は名前を知っている。振り返ると、そこには中年の男がひとり、顔にわずかに笑みを含みながら立っていた。
「鈴原有利亜さん。すみません、こんなところで話しかけちゃって。まぁ、こんなところでしか話せなかったもので。」
「どなたですか?」
有利亜は、まったく表情を顔に出さずに言った。少しでも恐怖を顔に出すと、忽ち襲われそうな恐怖があった。
「立花薫と言います。フリーのカメラマンをしていましてね。」
「立花薫さん」
口に出して復唱してみたが、記憶にある名前ではなかった。
「そう。立花です。ほら、これ。」
立花は、ポケットから写真を出して有利亜に渡した。有利亜はゆっくりとその写真に目を移した。有利亜が写っていた。マンションに入るところだった。
「これはスクープだと思ったんですよね。今年一番のビッグカップルだって。なのになんの警戒もなく簡単にこの写真が撮れて、拍子抜けしちゃいましたよ。」
有利亜は言葉が出なかった。立花が次に何を言うのかが怖かった。
「でも、駄目だった。一度はこの写真を買ってくれるって言ってた週刊誌も、後になって断ってきたんですよ。なんでなんだって。ねぇ。普通思うでしょう。そしたら、すぐにわかりましたよ。LL-GIRLSの生田愛良のスクープがでて、結局こっちのネタはつぶされたわけです。」
有利亜は、腋の下に汗を感じた。
「僕の想像ですが、貴方とHARUICHIさんのスキャンダルが世に出ることを恐れて、REPとプロダクション西岡とが、代わりのネタを提供したんですよ。きっと来週には、プロダクション西岡のスキャンダルが週刊誌に載るはずです。こんなことって。ねぇ?せっかく臨時収入が入ると思ったのに。あなたに言っても仕方ないことです。仕方ないことだ。ええ、それは分かってるんです。分かっているつもりですよ。でもね。でもさぁ。ねぇ?」
「何が言いたいんですか。」
「ねぇ、そんなんでやっていけるわけないじゃないですか。いけるわけありませんよ。何れはバレる。ばれますよ。それで芸能界追放。ねぇ。それで終わりです。終わっちゃいますよ。終わりたくないですよねぇ?そりゃそうですよ。せっかくLL-GIRLSに入れたんだもん。これから芸能活動していきたいんだもん。こんなところで、こんなことで、終わりたくないですよ。人生に傷がつく。ねぇ。よく考えてくださいよ。考えてください。考えるべきだ。どうするかを。貴方自身で。貴方と貴方の大事な大事な彼氏さんと、話合うべきだ。こんな話が広まったらどうなるか?分かりますよね。写真のネガは私しか持っていません。今ならどうにかなると思いませんか?ねぇ?まぁ、考えておいてください。」


そう言って、立花は、振り返りもせず小走りで去っていった。有利亜は、息をするのを忘れていたかのように、静かに細く息を吐き出した。
 有利亜は、何もなかったかのようにHARUICHIと接した。何も食べていない彼に食事を作ってやり、一緒に食べた。今の彼に、あの立花が言ったことが少しでもプラスになるとはどうしても思えなかったし、もし彼にとってそんなことがどうでもいいことだとしたら、そのことでどん底に落ちた気持ちになっている自分が、救われない存在のように感じられたからだった。HARUICHIには相談できない。有利亜は、自然とそう結論づけた。それでも自分ひとりでは到底解決できそうにもなかったのだが。
 室内空調の静かな呼吸が、皿と匙の接触音が、そして二人の瞬きの一つ一つが切り取り不可能な時間のひとこまのシャッター音のように、そうそれは確かに現像されていく時空間の特異点として奇妙に規則正されていた。HARUICHIの匙からこぼれ落ちたグリーンピースの一粒がそれ自体の重さよりも重く机に弾跳し、そのまるで空気の抜けたボールのような運動学が、一瞬だが二人の目にとまり、静寂を曝露した。
「今日は、昨日より顔色がいいみたいだね。」
「・・・。いや、そうでもない。有利亜の目がいいんだよ。目がいいに決まってる。」
「なにそれ?面白い。今日は一日何してたの?また何もしてなかった?」
HARUICHIは左手で、窓際の床に散乱した書類を指さした。
「曲を書こうと思って、紙を探していたんだ。」
「そうなんだ!書ける気持ちになったんだね。一日中探してたの?」
「紙が見つからなかったんだ。どうしても見つからなくて」HARUICHIは髪の毛をガシガシ掻いた。「見つからなくて、それでそのとき。そうだそのとき、どこかで犬の吠えるのが聞こえて。もうどうでもいいやってなったんだ。どうでもいいやって。紙なんかどうでもいいやって。だから、床に“ワン”って書こうとしたら、ペンがなくて。ペンがないから書けないと思ったんだけど。それすらどうでもよくて、気持ちが悪くなってきて、少し横になったら、いつの間にか寝てしまって。」
そう言ったHARUICHIは本当に具合の悪そうな顔をしていた。
「そうなんだ。少しづつ回復してる証拠だよ。紙とペンがなかったんだ。私が次買ってくるよ。机の上に置いておけば探さなくて済むし。ね」
「有利亜ぁ。」
「ん?どうしたの?食べ終わった?片づけるね。」
「有利亜。有利亜。呼んだだけだから。有利亜。そう呼んだだけ。」
有利亜は、皿とグラス、匙をお盆にのせた。
「一人にしてくれ。一人にしてください。有利亜。ごめん。ごめんね。ごめんなさい。一人にしてください。有利亜。いい?」
「え?」
「有難う。本当にありがとう。今まで、短い間だったけど。ごめんね。ありがとう。」
有利亜は、わけもわからず、HARUICHIの方を見て、それでそれでも彼の言っていることの意味がわからず、必至に考えようとしたけれど考えが追いつかず、まとまらず、ポロポロと涙が、それはずっと彼と出会ったときから我慢していた涙、堪えていた嗚咽が抑えきれないで、感情の沸騰のように慟哭した。
「何言ってるの?ねぇ。何それ?どういうこと?」
「ごめん。ごめん。ごめんなさい。有利亜と別れます。俺、一人で生きていきます。分かってる。今の俺が独りで生きていけないことくらい。分かってるんだけどね。分かってる分かって。分かってる、ごめん。さようなら。さようなら。」
「分かってないよ。はる君。ぜんぜんわかってない。わかってないよ。わかってない。」
HARUICHIは有利亜の方を見ようとしなかった。わずかに体を傾け、泣いているようにも見えた。
「いや、いやそうじゃないんだ。そうじゃない。有利亜のことが嫌いになったんじゃない。嫌いじゃないんだけど、もう好きでもないんだ。ごめん」
「謝らないでよ!」
「ごめんなさい。言ってることが伝わらなくて、苦しい。」
「私だって苦しいよ。そんなこと言われて。今の今まで、どうして?」
それ以上、HARUICHIの言葉には意味的なものは出てこなかった。彼はどこか自分に陶酔しきった様子で、そしてそうしないことにはきっと自分を自分として認識することができないでいるような、そういう佇みでいたのだった。それは有利亜には到底理解できない遠くの問題であり、その佇みが何を語るのかも理解しなかった。ただ、自分の、自分達の置かれている立場、立花の先の話が彼女を圧迫していたし、それなのにその困難に単独航行しなければならない苦しみが、彼の苦しみについての理解を阻み、そして只々混乱と冷たさの気配に浸らなければならなかった。


「さようなら。」


有利亜は、開かない喉から振り絞るようにその言葉を吐いた。まるで感情と感情の間にその言葉があるように、それは非常に羅列的であった。  



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