第2話 「静かな湖畔で鳴く鳥の」
人は、自己を否定しなければ、他人を肯定できない。なぜなら、自己評価は、他人との相対評価なのだから。一方で、人を、自然の一部である石や森林と比較することはできない。しかし、もう少しぼんやりとした視野で見れば、石や森林と比較しなければ、人は人たることを自覚することはできない。つまり、人は、人と比較している段階では、人というものを自然と区別することができないのだ。まったく異質のものを比べることはできないからである。それは比べているのではなく、横に置いているだけだ。しかし、その結果、石の成分、それを構成しているひとつひとつの原子レベル、素粒子レベルにまで分解すると、石と森林、石と人間の区別などないことに気付く。世界を世界として見るから、それは世界なのであって、それは石であってもなんら不思議はないのだ。



「僕は、詩を書くたびに、何人に恋をすればいいんだろうって思うんですよ。結局、命をすり減らす作業なんです、作詞って。だから、仕事と仕事の間には、適正なインターバルがあってしかるべきで。でも、僕はそんなに休むことはできない。この仕事って、浮気性の人間しか向きませんね、はは」

 本郷上一郎は、来月発売される雑誌のインタビューを受けていた。彼は、名だたる放送作家、構成作家、広告ライター等からなるメディアプロデューサー集団「ミニパニック」を主宰している。今までも数々のインパクトある仕事に携わり、業界では、突出した才能を発揮してきた。近年のアイドルグループのブームのきっかけを作ったのも彼だ。そして、最近では、LL-GIRLSの生みの親として、再び脚光を浴び始めている。
「そういえば、今日、LL-GIRLSの第10回オーディションの最終選考ですよね。毎回毎回、どんなコンセプトで選考に望まれているんですか?」
その雑誌記者は、秋色のカーディガンに、細めのデニムパンツをあわせた、いかにも流行に敏感そうな装いをしていた。業界に憧れる若者は多い。その中の数人だけが、こうして上一郎のような「時の人」のインタビュー記事を受け持つことができる。他者を出し抜くためには、そういった流行に合わせる時代感や協調性に加えて、たとえば彼のような秋田県出身という堅固なバックグラウンドを持ち合わせていなければならない。ベストミックスが、評価される時代であって、歪(いびつ)な天才は求められなくなっている。社会の包容力低下で、皆が皆、自分の保身で手が回らなくなっている。
「そうですね、確かにいつも同じ姿勢で会場に入っているわけじゃありませんよ。だいたいオーディションに来る子って、10代なんです。それで、だいたい4〜5年後くらいに徐々にファンの人がついてくる。だから、最低でも5年くらい先を見て選ぶようにしてます。今がどんなに七色に輝いてる子でも、5年後はわからないって自分に言い聞かせてます。逆に、オーディションでは、ぜんぜん見えない子でも、何か成長できる要素が見えれば青田買いで、決断しますね。結構それで成功したパターンが多いんですよ。タレントって、作り手の予想を超えるものじゃないですか。
そうは言っても上一郎は、自分のプロデュース力に十分自信をもっていた。もう、何人ものトップアイドルを輩出してきたし、自分の与えたスパイスが、最高のメインディッシュにドラマティックなエッセンスをエディションするのだと確信していた。その反面、光を失ってしまったタレントも数多く見てきた。そういうときには自分の無力さにつくづく嫌気がさした。足を洗うことも何度か考えた。それでも、まだこの業界に留まり続けているのは、この仕事にきっとある普遍的な方程式の存在を信じているからだ。すべての細かな仕事は、一本の線で結ばれている。そのたった一本にすがって20年あまりを俯瞰してきた。
この朝の雑誌インタビューが終わると、すぐに新幹線に乗り込み大阪の会場へと向かった。今日も、昼飯は弁当だ。


 亮太が投函した応募用紙は、2日後に、東京のLL-GIRLSの所属事務所「ライアンエンタープライズ(REP)」に届いた。それは毎度のことではあるが、いわゆる厳正な審査というやつが始まるまでに一所に集められていた。その結果、段ボール箱が10数箱、まるで産業廃棄物のように雑然と置かれることとなった。一次審査は、書類選考。ここで、ほとんどを切り捨てていく。写真は重要である。自分を良く見せようとして、細工された写真はまず落とされてしまう。ありのままの自分を、その写真に写せば、書類選考を担当する若いスタッフが自己判断できずに、通過させてしまうのである。

 糸山啓太は、REPで働き始めて3年目になる。大学時代に、体育会系軽音部に所属しており、もちろん夢はミュージシャンだった。多くの先輩が、現実と夢とのつりあわない天秤を酒の肴に、公務員や一般企業への就職の道を歩んでいく中、啓太は、タイムリミットを過ぎても結論を出せずに、人生のインターチェンジにある衝撃吸収ブロックにつっこんでしまった。働きながら道を見つけるなんて、甘露煮より甘い、淡い期待は、3年目になると指数関数的にゼロに近づいた。かといって、他に目標もなく、上から言われるがままの雑用をこなす毎日。言われたことだけを完璧にこなすという、人間の金太郎に相撲で負けた熊にも自慢できないような成長が、逆に腹立たしかった。
昼飯を食べた後、倉庫においてある今度のオーディションの書類選考を仕分ける作業に取り掛かった。応募書類と写真を見て、上司に書類を通すかどうかを判断する。しかし、サラリーマン上司は、システマティックに書類に目を通すだけで、実質の書類選考は啓太がやっていることになる。書類選考を担当するのは、これで5回目だ。入社当初から、タレントを見極める目が大切だという社の方針から、多くの応募用紙に目を通してきた。街角でのスカウトも経験した。啓太が目をつけたタレントの卵が、孵化したことはまだ一度もない。自分は、有精卵を見分けられない鶏卵農家と同じだと思った。それに、自分が無精卵なのだから、有精卵を見分けられるわけがない。
 数十枚の応募用紙を仕分けたところで、啓太の手が止まった。疲労のピークが来たのだ。昨日は、タレントサインの代筆を深夜まで手伝っていた。LL-GIRLSのサインだった。今度発売するニューシングルに、抽選で1000人に直筆サインが当たることになっている。5掛ける1000枚の色紙が、啓太の前に置かれたときは、そこが国立公文書館かと思ったくらいだ。枚数が多すぎて手が腱鞘炎になった。お陰で、利き手の右だけでなく、左でもサインを書けるようになった。たとえ、事務所をクビになっても、この代筆能力で、多少は小金を稼げるかもしれない。LL-GIRLSの中でも、藤原結子のサインは、細かな部分が多く、模倣するのに苦労する。何度も練習しながら、それを自分のものにした。それを思い返すと、疲労した脳が黒線のデジャヴュを映し出す、とうとう壊れるかどうかの瀬戸際が来たようだ。と、そう思っていた啓太の手が、無意識にマジックに手をかけていた。「あ。」と思ったときは、一瞬遅かった。応募写真にマジックの点が入ってしまっていて・・・。丁度、応募者のおでこの真ん中のところに、仏のようなホクロができてしまった。啓太は、疲労からか、麻痺した感覚からか、咄嗟に、不自然さを隠すために、もうひとつ右頬にホクロを描いた。事故を事件にする人間の心理には、常に自己顕示欲が絡んでいる。
 このとき、啓太には選択の余地があった。このホクロを描いてしまった写真の応募者を、この時点で不合格にしてしまえはいいのだ。こんな写真じゃあ、この先の選考も通過することはできまい。あきらかにマジックで書き込まれたとわかるホクロ。疲れた上司の目でもわかるだろう。しかしこのとき、啓太に一瞬魔がさした。このまま、この候補者に賭けてみたくなったのだ。連敗続きの自分には、何かが必要だった。もしこの候補者が、上司の目をすり抜け、2次選考も通過したら、自分にとって好材料になるかもしれない。ただ、流れ作業で合否を判定していた今までの応募書類じゃなく、この選択は、間違いなく啓太にとって多少のリスクを負った選択であることは間違いない。この賭けが、3年間を払拭するものになってほしいとさえ思った。
すべての応募書類を仕分け終わったのは、夜の2時半だった。帰る気力もなく、事務所で仮眠をとることにした。目をつむった瞬間、あのホクロの応募書類のことが気になった。本当に、あの書類を通していいのか?今ならまだ間に合う。啓太は、合格書類の束を手にとり、あのホクロを探した。よく考えてみれば、あの書類だけ何も目を通していない。名前すら見なかったのだ。「あった・・・。」啓太が手にとった書類には、鈴原有利亜という名前が書かれていた。最近の小学生にしては、良く書けた字だ。応募書類の各欄によく目を通してみた。特に問題になるところはない。ホクロがなければ、おそらく書類選考はパスして、2次に行くだろう。ホクロの写真は、国語教科書の太宰治を思い出させた。真面目な肖像に、生徒の精一杯のパロディーが込められている。啓太は、急に可笑しくなってきて、その書類をもったまま大笑いした。そして、もうどうでもよくなって、書類を元の束に戻して眠ってしまった。

翌日、上司がその合格書類を確認した。上司の節穴は、ホクロを見事見落とした。そして、啓太の仕分けた書類はそのまますべて2次選考にかけられることになった。



その日も塩栗鉄平は、タイミングよく下駄箱で有利亜に出くわした。
「おはよう。てっちゃん。」
いつものように、一陣の風のように疾走する有利亜。
「鈴原。お前、オーディション受けるって聞いたけど、本当なんか?」
有利亜は、立ち止まって怪訝そうな顔をした。
「もう、千津子のやつ。てっちゃん、他の人には言わんといて。どうせ落ちるんやし。」
「おお・・・。わかった。」
やっぱり、本当だったのか。鉄平は、有利亜がそういう世界に興味があることを知らなかった。最近は、低学年のときのように男女で遊ぶことがなくなってしまい、有利亜との接触も少なくなっていた。遠くに感じるこの距離感に、鉄平は歯がゆい思いがした。
放課後、鉄平は放課後児童クラブへ行こうとする有利亜を呼び止めた。
「待って、鈴原ぁ!」
「てっちゃん、どうしたん?」
有利亜の屈託のない両眼が、鉄平を不思議そうに見ている。
「あ、俺は・・。俺は、お前がオーディション受かると思うねん。」
「なにそれ」
何を言いに鉄平が、自分を呼び止めたのかが分からなかった有利亜は、その意味不明さに少しの可笑しさを見出した。
「だから、LL-GIRLSになっても、学校やめんなよ!」
俄然、可笑しかった。
「何、笑ってんねん。俺は、本気で・・・!」
「ごめん、合格するかわからへんのに、合格した後のことなんて考えられへんわ。それに、私も聞いたで。てっちゃん、中学、西中に行かへんねんやろ?
急に、切り返されて鉄平は、後ずさった。西中は、有利亜たちが通っている小学校の校区にある中学校だ。
「お父さんが、西中のサッカー部は強くないっていうから。でも、俺はまだ決めてない。西中だってサッカーはできるし、それに・・・。」
それに、西中なら有利亜と一緒にいられる、今と同じ距離感で。その返答に、有利亜は渾身の溜息をついた。
てっちゃんは、サッカー選手になりたくないの?
「え?そりゃ、なりたいよ。なるために、練習してるんやもん。」
「西中でサッカーやってて、サッカー選手になれるん?」
「そんなんわからへん。練習次第やろ。っていうか、何が言いたいねん。」
有利亜は、右の拳を鉄平の胸に当てた。軽い衝撃で、鉄平の体が重量を失った。
「私は、てっちゃんに、絶対にサッカー選手になってほしいねん。わからへん言うてたらあかんやろう。素人の私でもわかる。西中なんて行ってたら何年経ってもサッカー選手になんてなられへん。以上!
そのとき、有利亜はにっこり笑っていた。その笑顔が、有利亜の一番の武器なのだ。鉄平が何か言おうとしたとき、有利亜は逆方向に歩き始めていたから、結局何も言い返すことができなかった。「俺は、あいつには勝たれへん。」鉄平はそう思った。



 難波にある貸し会議場で、オーディションの2次選考は行われた。里美は、その日のパートを休んで有利亜に付き添うことにした。
「難波くらい、自分でいけるから、お母さんは、パート行っていいよ。」
と、有利亜は言ったが、里美は聞かなかった。
「誰も、あんたが心配で行くんちゃうわ。パートサボれるから行くだけや。」
つくづく、素直でない親子は、早朝の難波駅近くをトコトコと早足で歩いていた。秋も過ぎ、初冬の気配が忍び寄る緊迫した冷感の朝だった。道程はだいたいわかっていた。会場までは、タクシーで向かってもいいような距離で、それでも、タクシーなんてうがった乗り物は、彼女達にふさわしくないように思われた。会場近くになってくると、同じような親子連れの姿もちらほら見えてきた。2次選考は、大阪と東京の2ヶ所で行われる。大阪会場には西日本からの応募者が集まってくるのだ。皆、都会での活躍を夢見ている。里美には、徐々に有利亜の目の色が変わっていくのがわかった。緊張感をどれだけ許容できるかは、人によってそれぞれ違う。緊張状態は、よくないと言われることが多いが、それは緊張の許容量を超えているからである。許容できる緊張感は、逆に精神的孤立を人に与え、集中力や、意欲の面でプラスに働く。有利亜は、このときまるでオリンピックで決勝に挑む平成の三四郎のように猛っていた。
会場に入ると、正面玄関に簡単な受付があった。2人の若いスタッフの前に、候補者の列ができていた。10分くらい待ち、有利亜の番が終わったとき、そのうちの1人のスタッフが彼女を呼び止めた。クビから下げている社員証には、“糸山啓太”とあった。
「鈴原さん。すみません、実はですね、送っていただいた写真が私の不備で紛失してしまったんですよ。申し訳ないんですが、鈴原さんの、選考順番が来るまでに、近くの写真店で新しい写真をとってきてくださいませんか。もちろん費用は私が負担します。」
啓太は、怖くなったのだ。あのホクロが。よく、こんな大それたことができたものだと自分自身驚いてはいたものの、これが出来得る最大限のことだと思った。これで、鈴原有利亜は普通の候補者と同じだ。ただし、“啓太の賭け”はまだ続いている。実力で、勝負してくれと思った。
 里美は不審がったけれども、お金ももらったし、それに加えて、送ったインスタントカメラで撮った写真よりも、写真屋で撮った写真の方がいいだろうとも思った。里美はしらなかったのだが、プロの撮った写真はいい評価を受けないことが多い。二人は急いで近くの写真店まで走った。
「じゃあ、次。」
今回、選考に係わっているのは、REPの常務取締役・山本林太郎、マネジメント部の責任者・磯部達也の二人だった。次の候補者は、順番表通り、鈴原有利亜だった。候補者が入室する前に、ざっと応募書類に目を通す林太郎。写真映えする顔だと思った。しっかりとした顔の輪郭に、強いメッセージ性のある目が、写真に現れていた。おそらくプロの手で撮られたのであろう、よく照明が調整されており、静止画なのに動きを感じさせる。
 有利亜は、入室すると軽く自己紹介をし、自己PRに歌を歌った。流行の歌ではなかったし、特別上手くもなかったが、強いて言えばカラオケマシンに負けない声量を印象付けることができた。持ち時間が過ぎ、有利亜は椅子から立った。


あ、ちょっと、最後に聞きたいんだけどさぁ。


林太郎は、ひとつだけ気がかりだったことを、有利亜に聞いた。
「この写真、野外で撮ってるけど、プロのカメラマンさんに撮ってもらったの?よかったら、どこのカメラマンの人か教えてくれない?」
「え?」
「いや、この写真さぁ、すごく出来がいいんだよ。普通のカメラマンが撮ったとは思えないくらい。」
腑に落ちなかったものの、有利亜は事情を説明した。
「写真の差し替え?聞いてないけど、まぁ、なるほど、それで、近くの写真店で撮ったわけか。」
「はい、でも時間的に写真屋さんが開いてなくて、困っていたら町の風景を撮っているおじさんがいて、その人に、お母さんと二人でお願いしに行ったんです。最初は、断られたんですけど、何回もお願いしたら、撮ってくれました。」
「おじさん?はは、面白いなぁ、それ。」
林太郎の横に座っていた達也が食いついた。
「っていうことは、そのおじさん、現像はどこでしたの?」
「近くに、現像するところがあって、なんかそこがその人の仕事場らしくて、そこですぐに現像してもらいました。お金を払おうとしたんですけど、仕事じゃないからって言われて断られました。」
「スタジオかな?どこにあったの?その現像場所。」
林太郎が、さらに聞いた。何か予感めいたものがあった。
「会場を右に出て、ずっとまっすぐ行って、左側にありました。」


そこで、質問は終わった。有利亜と里美は、今日のことを話し合いながら家路についた。不思議なことがいろいろ起こった一日だった。
 啓太は、達也に写真の差し替えについて、問いただされた。紛失したとして、なんとか言い訳したものの、報告をしていなかったことできつく注意された。
「あ、あとひとつ、この会場を右に出て、真っ直ぐ行ったところの、左側に写真スタジオがあると思うんだが、そこがどこだか調べておいてくれ。実にいい写真だったよ。今度、うちの宣材写真を更新するときに、使いたいくらいだ。」
「はい、わかりました。」
啓太は、ややふて腐れたが、これでホクロ事件が解決したことに内心ほっとしていた。会場の片付けが終わったあと、解放感のある軽い足取りで、そのスタジオを探しに行った。写真店や、個人スタジオらしきものはなかった。ただの写真愛好家か?とも思ったが、こんな一等地に現像設備を備える人間が、愛好家崩れなわけはないと、もう少し懸命に探してみた。


「何、山林健介?山林健介って、あの山林健介か?写真家の?ピューリッツァー賞の!?
「はい、あの辺で、あの通りで、現像できるところっていうと、山林健介氏の事務所しかないんです。最近は、大阪の街中の風景写真も撮りためているらしくて、可能性はかなり高いと思います。」
達也は、驚くと同時に、納得もした。一瞬を切り取った、あの動きを感じさせる写真に、山林健介が、山林健介たる痕跡をしっかりと残していた。
「それにしても、あの山林健介が、たかがオーディションで血眼になっている親子のために写真をサービスで撮るなんてな。とんだ慈善活動家か、もしくは・・・。」
そのときの達也の顔を、啓太は今でも忘れない。ダイヤの原石を幾人も見出してきた、伝説のスカウトマン。その眼力は、業界でも知れ渡っている。達也のその目が、今のREPを支えているといっても過言ではない。その達也の血走った目が、紅潮した顔が、啓太の賭けの結果について、生々しく物語っていた。



 結果通知が届いたとき、亮太と里美は、飛び上がって祝福した。でも、有利亜は、まだ2次選考通過しただけだからと、冷静にたたずんでいた。内心、期待と不安、そして希望と夢で、爆発しそうだったのに。
「2次選考のあとは、もう最終選考しかないんやろ?もう受かったも同然や。有利亜、今の内にサイン考えとけ、それで色紙買ってきて、書置きしとけば、後で値段つくぞ。」
亮太は、自分のことのように喜んだ。子供っぽさにかける妹のことは、ずっと心配してきたのだ。これで、前向きな妹を見られる。妹の明るい人生が幕を開け、損得勘定なしにそれを自分も喜べる。

 糸山啓太は、自分の行動を冷静に振り返ってみて、あの書類選考のときに自分がマジックでホクロを書かなかったら、はたして鈴原有利亜は2次選考を通過しただろうか?、と考えていた。ホクロの写真は、啓太がまだ持っていた。ややピンボケした写真。これでは、実際書類選考も通すべきではなかったかもしれない。次は、最終選考。自分のささいな行動が、なにかのブレークスルーになるかもしれない。赤道直下の蝶のはためきにより生じた小さな乱流が、やがて大きな台風になるというバタフライ・エフェクトを、今の啓太なら疑いはしなかっただろう。





 新大阪で、新幹線を降り、大阪・梅田へ向かう上一郎。多くの人々でごった返す駅構内を颯爽とすりぬけ、用意されていたバンに乗り込んだ。新幹線の移動中にも、山積している作詞作業に追われていた。せかされると良い物はできない。ただ、せかされないといつまでも詞が仕上がらない。適当な言葉遊びから、詳細を詰めていく手法で、これまで何百編という詞をつむいできた。売れた駄作もあれば、世に知られることのなかった名作もある。すべてに全力を振り絞ったわけではない。常に、歌い手のことを考えながら、そこで自然に出てくる感情に任せて力を注ぐだけだと思っていた。今でも忘れられないのは、あの演歌の大御所・篠田律子に詞を提供したときのことだ。良い物を作りたかった。ポップソングだけでなく、泣ける演歌も書けるところを世間にアピールする絶好のチャンス。こけることのできない大仕事に、上一郎は、なんども律子と打ち合わせを重ねた。律子のもつ演歌への真摯な態度、ストイックな姿勢、そして演歌界を牽引してきたという自信、そして類まれなオーラ、スター性。そういったものを全身で受け止めつつ、イロジカルにアウトプットしたその詩は、結果として上一郎の新境地を開拓する最初の楔となった。そして今、あのようなアバンギャルドな仕事をできているとは言えなかった。今の時代、詞よりもシステムが受ける、悲しいくらいに詞はシンボリックな意味しか持ち得なかった。律子が癌で逝去したとき、自分のひとつのステージが終了したと思った。もう2度と、あんな詞はかけないかもしれない。


 会場につくと、もうすでにスタッフが大忙しで準備をしていた。最終オーディションに残ったのは、38人。その中から、5人を選ばなければいけない。審査員として、上一郎の他に、2次選考でも参加した磯辺達也、REP社長の荒田敬三、ミニパニックの放送作家・荏田耕作、音楽プロデューサーの満田ひろし、センスバイレコード(SBR)の代表取締役社長・千代田茂が参加していた。開始前の打ち合わせで、上一郎は、今回の選考に関するコンセプトを確認した。
「今回は、10期生という節目の世代が選考されることになります。5年後も、同じように売れ続けるために、LL-GIRLSの中興の祖となる人材を発掘したい。少々いびつでもいい、どんな色でもいいから、光っていたら私はとるべきだと思います。

審査員全員が入室し、オーディションが始まった。トップバッターは、緊張と重苦しさというディスアドバンテージがある。普通は、それを考慮した上で下駄をはかせてもいいものだが、上一郎はそれをしない。一番最初に巡ってきたのも運命、もっているか、もっていないかの差がそこにでてくると思っているからだ。入室後、とっとっとっ、と軽妙な調子で彼女は椅子の傍まで歩み寄った。
本条みゆきです。16歳です。」
今回のトップバッターは、ディスアドバンテージさえないと思った。その部屋全体が、彼女の世界観を共有した。これが、自分の待っていたダイヤの原石なのかと、上一郎は思った。達也もそれを感じていた。今までにない独特の世界観、本条みゆきは、少女と大人の中間を上手くバランスしたような女の子だった。これは、LL-GIRLSグループの誰にももっていないような特徴だった。上一郎の脳裏には、今朝取材を受けた雑誌記者が思い出された。時代は、こういう風に変わっていくのかもしれない。

 啓太は、その日会場の設営を終えると、審査終了まで特にすることもなく、喫煙室で延々と煙を吸ったり吐いたりしていた。鈴原有利亜が最終選考を合格することは間違いないと思っていた。ただ、それはまだ確定していない。達也だけは、有利亜の可能性に気付いているが、他の審査員はそれに気付くことができるだろうか。頼りはあの山林健介が撮った写真だけだった。あれを見れば、きっと有利亜の輝きに気付くはずだ。啓太は、今回配られている写真のコピーが綺麗に複製されているのかが気になって、誰もいない控え室においてある予備の候補者資料を確認しに入った。
あれ?ない!
そのとき、控え室に先輩の児島聡子が入ってきた。
「どうしたの、糸山君。お弁当なら控え室Bの方に置いてあるわよ。」
「児島さん、なんで写真がないんですか!?」
「え?写真?」
「写真ですよ!応募書類の写真!候補者の顔とかスタイルとかがわからないじゃないですか!!」
「ああ、その写真ね。それなら、本郷さんが必要ないって言ってあえて省いてあるのよ。候補者が実際登場するのに、今更写真がどうのこうのっていうレベルじゃないだろって。それに、写真に騙されたくないそうよ。だって、最近のアイドルは、会えるアイドルだから、写真よりも実際の姿の方が優先されるのよ。それにしても、どうしたのよ、そんなに慌てて、いつものヤル気ない糸山君らしくない。」
啓太は、大きく掛け違っているボタンに気付いたときのような、恥ずかしさを覚えた。あの写真がないと、鈴原有利亜は合格できない。自分の賭け、決め事、業界人としてのセンス、それらがすべて有利亜の合格に直結しているように思えたのに、この3年間で一番感触のあった仕事なのに、このまま指をくわえて見ているだけなんてできなかった。あの山林健介が撮った写真ならもってきていた。少々強引ではあるが、途中休憩のときに、差し替えることは可能だと思った。自分のミスで写真を入れてしまったと言えばいい。それで結果オーライになるのだから。
「あ、そうだ、今日仕事終わりに、一杯やらない?せっかくの大阪出張なんだから、満喫しなきゃ。」
聡子のそのエアお猪口を、気にも留めないで、返事もせずに、啓太はその部屋を飛び出した。
「もう!どうしたのよ!糸山啓太!」


啓太は、近くのコンビニで写真をコピーした。両替に手間取った分、時間をロスした。次の休憩時間まで、あまり時間がなかった。ちゃんと、もってきておいて良かったと思った。クリアファイルに挟んだ鈴原有利亜の写真を。
「ここで、休憩にします。」
進行役のスタッフが、そう宣言した。しかし、上一郎は席についたまま、候補者名簿を眺めていた。あと残るは、7人。今の段階でも、十分5人を選考することができると思った。本条みゆきに加えて、樫木絵里などは手ごたえのあるポテンシャルを見せてくれた。どうやら10期は、高校野球で言えばKKコンビ世代かもしれないと思った。この二人が競い合って、LL-GIRLSを牽引する日がやがて来るのかもしれない。
 啓太は、さも当たり前のように審査室に入り、用意した写真のコピーをそれぞれの審査員の書類に潜り込ませるつもりだった。ほとんどの審査員は、トイレか喫煙室、自動販売機コーナーに行き、席を空けていた。しかし、上一郎だけは、席を立とうとしない。休憩時間は、15分しかない。痺れをきらした啓太は、もうどうでもかまわないと、大胆にも、上一郎が座っている横で、それぞれの審査員の書類に写真を入れて回った。
君、何してるの?
当然の流れなのだが、啓太はしかし、その質問に戦慄を覚えた。説明責任があるのか、ないのか、この場面をノンバーバルで押し切れるのか、それともこれはジエンドなのか?いや、正面突破だ!
「あ、写真が必要ないっていうのは聞いていたんですけれども、ぜひ写真も含めて審査していただきたい候補者がいまして。」
おい、ちょっと困るよ、勝手なことしてくれちゃあ、と普通なら言うのだろうが、啓太の常軌を逸した顔つきに、上一郎は尋常じゃないものを感じ、察した。
「あ、そう、熱心だね。君、REPのスタッフだよね?」
上一郎にも写真を配りながら、山場は脱したという感覚から、急な手の振るえを抑えつつ、上一郎の質問に軽く答え、それ以上の許容力はないとばかりに、場を離れようとした。
「あ、ちょっと、君。君も、その辺で、オーディションを見学するといい。何事も経験だから。」
上一郎の計らいに、足が震えで思うように動かない啓太は、断ることもできずに、部屋の隅で待機することにした。

「じゃあ、再開します。」
再び、審査室には緊張が戻った。しかし、最初のような緊張ではなく、審査員のほとんどが、もうこのオーディションから解放されたくて、それでも義務感からあと7人もこれまでと同じように新鮮な態度で挑もうとする緊張感だった。再開後のトップバッターは、残念ながら全員の審査員が難色を示した。あまりにも形ができすぎていたのだ。オーディション慣れなのかもしれなかった。
 次だ。と啓太は思った。まさか、自分がこの場に居合わせようなんて思いもよらなかった。もうすでに、かなり入れ込んでしまっている自分に気付かずに、有利亜が入室したときには、自分もオーディションを受けるかのような錯覚を持ってそれを迎えた。
鈴原有利亜です。10歳です。」
上一郎は、その声を聞いたとき、もう少し年上を想像した。容貌も声も、何か10歳という数字とは不釣合いな、不自然な、無条件に思考停止してしまうような歪(いびつ)さを感じた。自己紹介が終わり、有利亜は歌を歌った。細かなところの音程はとれていないが、声量でもっていけると思った。啓太は、審査員を見ていた。上一郎は、無表情だった。何を考えているかわからない。これは落とす気かもしれないと思った。その横に座っていた、磯辺達也は真剣に有利亜を見つめていた。彼は、もうすでに始まる前から有利亜を通す気でいたのだった。達也の横には、荒田敬三が座っている。
あれ?これ、この写真、何?>」
啓太は、それに動じなかった。自分の仕込みが、実るかもしれない。
ホクロですね・・・。マジックで書いたのかな・・・。
荒田のさらに横に座っていた荏田耕作が言った。「え?」啓太は、急な吐き気を覚えた。急いでコンビニでコピーしたのは、山林健介が撮った写真ではなく、啓太がデジャヴュを見たときのホクロ写真だったのだ。同じクリアファイルに入れておくべきではなかった。後悔と同時に、体が反応した。
うわああああ!
そう叫んだのか、それが心の声なのか、わからないが、とりあえず啓太は前にしか道はないかのように、ずるずると前進し、気付くと土下座していた。
「すみませんでした!」
「おい、糸山!何やってんだ!」
達也が叫んだ。
「お、俺、最近調子悪くて、幻覚とか良く見るんです。それで、気付いたらマジックが写真に当たっちゃってて!」
啓太は、泣いていた。わけもわからず、壊れていた。
「なんなんですか!?誰?どういうことか説明してください!」
SBRの千代田茂が言った。突然のことに彼もパニックになっていた。
「うちの社員です。すみません、私も把握してないもので、磯部君、状況は把握してるか?」
荒田が言って、達也の顔を見た。達也も、少々戸惑っており、それでもわずかな手がかりによる類推から、啓太の行動を理解しようとした。
「よくスカウトなんかやってると、自分がスカウトしたタレントに入れ込んじゃうことってあるんですよ。今回も、この糸山が最初の書類選考を担当したと聞いています。そういうことだと思います。そういうことなんだろ?糸山!?土下座するほどのことじゃない!誰にだってあることなんだよ!」
達也は、席を立ち嗚咽で自由の利かない糸山の体を支えた。


どう思う?


そのとき、上一郎は、一点を見てそう言った。その部屋にいた全員が、その言葉が最初誰に対して発されたのかを察知することができなかった。

君が、この状況を作り出したんだよ。他の誰でもない、君だ。こんなことそうそうあるもんじゃない。僕は驚いているよ。そして、震えている。

上一郎は、そこで始めて笑顔を見せた。有利亜は、何も答えなかった。
君は、スターだ。見た瞬間そう思った。ぜひ、僕にプロデュースさせてくれ。合格だ。
本郷さん!?合否は、審査員の総意で決めるはずじゃあ!?」
耕作が言った。しかし、そう言った耕作も、そんな陳腐なルールはどうでもいいと思っていた。この場で起きたこと、それを作り出した鈴原有利亜という逸材、それだけで十分だった。こんなドラマティックな脚本は、誰にだって書けない。
「彼女は、今回の5人枠外でとる。私の裁量でお願いします。荒田さん、千代田さん、すみません、勝手言ってることはわかってます。」
「いや、いいんだ、本郷君がそういうなら、それがベストアンサーなんだろう。予算面でも事務所としては、問題ないよ。」
荒田が言った。荒田自身は、上一郎の判断が正しかったのか分からなかった。ただ、糸山の不祥事の手前、変に反対することはできなかった。荒田にとって、それで売れれば結果オーライなのだ。


 帰りの電車で、里美は、有利亜が動転していることについて心配した。
「どうしたん?そんな落ち込んで。上手くいかへんことだって、世の中には山ほどあるんやもん。まだ結果は出てないんやし、早合点してもしゃあないで。ほら、今日はカレーとハンバーグ作ったる!スペシャルサンクスや!
里美は、有利亜の膝に手を置いた。すると、有利亜は、里美の目をじっと見つめた。怖いほどに真剣な目。ひとつ間違えば、世界を壊しかねない、世界を裏切りかねない。
「合格した・・。お母さん、私、アイドルになれる・・・。
里美は、有利亜が何を言っているのか分からなかった。でも、何もわからず、何も理解しようとせずに、きつく抱きしめた。それが母親の役目だと思ったからで、それが正解だった。


 上一郎は、帰りの新幹線の中で、作詞作業をしていた。しかし、それは行きの新幹線で書いていたものとは違う詞だった。鈴原有利亜のデビュー曲。10期は、KKコンビ世代ではなかった。松坂世代なのだ。

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