第3話 「走るしかない」
人間の目的意識は、良い教師により育まれ、強制される。しかし、人間は本当に目的意識がないと、行動を起こすことができず、継続的な活動をすることができないのだろうか。人は呼吸をするのに、生きるという目標を掲げているだろうか。生理現象には目的意識がないことがわかると思う。では、欲求はどうだろうか。人間は、食事をするときに、直接的に生を意識するだろうか。中には、困窮によって意識的に生きるために、食べるものもいる。また、スポーツ選手の中には、その競技に適した体を作るために、計画的な食事を採るものものいる。だが、それは、食欲ではない。食欲に目的などない。では、スポーツ選手がその競技を極めんとする、向上心、自己顕示欲はどうだろうか。これにも特にそれ以上の目的はないように見える。自己顕示欲自体が目的化することはあっても、自己顕示欲の根源に目的はない。つまり、目的とは、人間の行動原理の根源にはないのである。目的は手段であって、本質ではない。目的は、行動原理を分かりやすく間接的に言い換えたものにすぎない。だから、ある種の人間は、目的・目標もなく、だらだらとただ時間を浪費することができるのである。



第10回LL-GIRLSオーディションの結果が公式ホームページ上で発表された。有利亜を含めて7人。お披露目公演は、年が明けた4月と決まっていた。それとは別に、LL-GIRLS全体を揺るがす発表がされた、今度の第24枚目のシングルに、LL-GIRLSの5人に加えて、有利亜を代表メンバーにするというものだった。
 毎月第2土曜、港区麻布十番にあるオフィスビルで「ミニパニック」定期打ち合わせ。ミニパニックは、ある種のプロジェクト的な要素が強い集団で、法人化はされていなかったから、このオフィスビルは、当座のために上一郎がワンフロアだけ借りたものだった。業界の頭脳を集めて、方針を明確に話し合う。メンバー同士が決まって同じプロジェクトに取り組む必要はない。お互いが近況を話し、刺激しあう。そういう意味合いが強かった。だいたい、定期打ち合わせは、2時間くらいで終わる。その日も、それが終わると上一郎は、そそくさと会議室を出て行った。
「本郷さん。」
呼び止めたのは、荏田耕作だった。
「どうした?耕作。」
「本気ですか?鈴原有利亜を、今度のシングル曲の代表メンバーに抜擢したって。」
耕作は、強い口調で話した。
「この曲だけだ、この曲だけ。最初だけ、人と違うスタート位置に立たせてやらないと、彼女はいつまでたってもスタートを切れない。埋もれてしまう。」
「メンバーや、ファンは戸惑いますよ!?ファン投票システムの意味がないじゃないですか。一度崩れたシステムは、もう信用を失います!それに、鈴原の才能は、そんな簡単に埋もれやしませんよ!」
「どうせ崩れるなら、こっちから崩してしまったほうがいい。どうせ、どんなによくできたシステムでも、マンネリ化するときがくるんだから。次のアイデアを考えればいいことだ、それよりタレントだよ。コンテンツなんだ、今求められているのは。今のLL-GIRLSのメンバーもやがては、次のステップへ行かせないといけない。深刻なタレント不足に直面するだろうよ。」
「どうしたって言うんです!?本郷さんらしくない。タレントの力を信用していないみたいだ。まるで、自分が見つけたことを、いち早くアピールしたいみたいだ。こんなことしてたら、LL-GIRLSだけじゃなく、鈴原有利亜も潰れます。そして、本郷さん、あなたも・・。」
耕作は、そこまで言って、躊躇した。
「タレントに救われることはあっても、タレントに潰されることはないよ。心配するな、軌道修正はちゃんとする。いつもそうやって、切り抜けてきたんだ、特に最近はな。」
上一郎は、足早にビルを出て、バンに乗り込み、SBRのレコーディングスタジオに向かった。
 糸田啓太は、これまでの雑用的な仕事に加えて、魅力的な新しい仕事を与えられた。10期生のマネージャーである。磯部達也から直接それを知らされた。驚きしかなかった。しかし、よく考えてみると必然だった。入社から3年が過ぎたし、他の仕事をしてもいい頃だ。それに、あのオーディションでの出来事もある。あの不祥事については、まったく咎められなかった。あの事件の結果が、吉とでるのか凶とでるのかは、まだ出ていないという上の判断なのだろう。もし、鈴原有利亜がこければ、啓太も責任を取らされるということだ。
 その日は、児島聡子に誘われて、板橋で飲むことになった。大阪出張のときに、誘いを断った穴埋めだ。啓太が全額おごることになっていた。二人は、駅前の焼き鳥屋に入った。立ち込める煙が、食欲をそそる。ビールで乾杯し、聡子がざっと注文した。
「それにしても、聞いたわよ。」
「え?なんのことですか?最近、いろいろとありすぎて・・・。」
「大阪のオーディションでのことよ。あんなに血相変えて走り回ってたから、なんかあるんじゃないかとは思ってたけれど。」 「ああ、それですか。実はもう掘り返されたくないんですけどね。あれは、らしくなかったです。流そうと思えば、流せたんでしょうけど・・・。お陰で、仕事が増えました。俺、このまま会社に埋もれていきますよ、たぶん。」
「何、ネガティブなこと言ってんの。私は、評価してるのよ。いつも死んだように、気配消して仕事してきた糸山君が、爆発したんだもの。会社の体制にも問題があったのよ。一人に書類選考させて、負担が大きすぎたのよ。で、どんな娘なの?糸山君が、一押しの娘って。」
そのとき、何本かの串が注文どおりに、テーブルに並んだ。
「いや、それが、俺もよくわかってないんです。とりあえず、写真映りはいいです。」
「なんなのよ、それ。それだけのことで、人生の大勝負に出たってわけ?」
「本郷さんは、スターだって言ってました。絶賛でしたよ。」
「へー、あの本郷上一郎が絶賛ねぇ。まぁ、今度の新曲でメンバーに入れるくらいだから、相当入れ込んじゃってるんでしょうね。糸山君といい、本郷さんといい、あの磯辺さんだって、皆、その鈴原って娘に、ドハマりしちゃったみたいね。私からしたら、大の大人が口をそろえて、馬鹿馬鹿しいって思っちゃうけど。」
「ただ、鈴原だけじゃないですよ。10期は、本郷みゆきや、樫木絵里だって、相当の逸材です。あと、面白いところでは、権田理沙なんてのもいますし。」
「権田って、ダンス大会で、全国優勝したっていう?」
「はい、ルックスはいまいちなんですけど、ダンスはおそらくLL-GIRLSイチです。あとキャラも個性的で、この先が楽しみです。」
「ふん、もう、マネージャー気取りなわけね。正式配属は、来週なんでしょう?」
聡子は、ジョッキに残っていたビールをぐいっと飲み干すと、ハイボールを注文した。
 合格通知が鈴原家に届いたとき、家には有利亜だけしかいなかった。夜の9時。封筒で届いたそれは、いろいろな資料が入っているのか、分厚かった。有利亜は、中を開けるまでもないと、開封せずにテーブルに置いておいた。オーディションの次の日は月曜日で、普通に学校に行った。千津子にオーディションのことを聞かれたので、その場で合格したことを伝えると、まったく信じようとしなかった。この封筒の中身を見れば千津子も信じるはずだ。
 翌朝、有利亜が起きると、封筒を開封した里美が、祝福してくれた。
「まさか、本当だとは思わなかった。本当に合格したんやね。おめでとう。」
里美は、心から嬉しかった。自分の果たせなかった夢。その夢に娘が挑もうとしている。どんなに贔屓目に見ても成功する姿しか想像できなかった。
「これから、迷惑いっぱいかけると思う。ごめんなさい。わがまま言って。」
「何言ってんの。ずっと苦しい思いしてきたんやんか。辛いこともあったのに、涙も見せんとがんばってきたんや。あんたは偉い。神様が見ててくれはったんや。ご褒美やと思いなさい。その中でがんばったらええねん。与えられた仕事、精一杯こなしたら、それできっと失敗しても次につながるから。ファイト!有利亜!」
その母の言葉に、ちょっと泣きそうになった。そして、初めて合格した実感がわいてきた。里美が先に出勤し、有利亜は、朝ごはんの片付けや、洗濯をしてから登校した。
「おはよう、鈴原!」
「おはよう。」
塩栗鉄平は、すでに砂まみれの服を払って、上靴に履き替えた。
「そういえば、オーディションの結果どうやった?」
「え?・・・・。受かったよ。」
靴に目をやっていて、目線を上げたときには、有利亜はもう走りだしていた。遅刻ギリギリだった。
「え?受かったって言った!?」
鉄平は、慌てて有利亜の後を追ったが、追いつけなかった。自分より先に大人の世界へ踏みこもうとする有利亜と、まだ等身大の小学生である自分のその人生の構図が、そこに現れているかのように。
 千津子は、かなり驚いていた。何度もオーディションの様子を聞き、本当にLL-GIRLSのオーディションだったのかを疑った。でも、最後には、満面の笑みで有利亜を祝福してくれた。このニュースは学校中に、稲妻のように駆け巡った。放課後、児童クラブで千津子といっしょに宿題をしていると、担任の戸塚史郎がやってきた。
「有利亜。お前、芸能界のオーディション受かったって本当か?」
やさしい目をしていた史郎だったが、かなり慌てている様子だった。
「そうや。遂に、先生にもばれてしまったか。」
有利亜は、千津子と顔を見合わせ、笑顔を交換した。
「そうか、本当か。それやったらな、芸能界の仕事と、学校の両方がんばらなあかんからなぁ、一度、有利亜のお母さんとも話せなあかん。これから休むことも多くなるかもしれへんからな。明日、お母さんと話できるか聞いといてくれへんか?」
「うん、わかった。ちょうど明日、お母さん休みとるから、来れると思うわ。」
 翌日、里美は、小学校に足を運んだ。昼休みのときに、空き教室で3者面談を行った。
「お母さん、まずお話しなければならないのは、卒業の要件についてなんです。芸能界のお仕事をされるということで、お休みが多くなると思いますが、実は出席日数は、本質的な卒業要件でありません。だからといって、いくらでも休めるかというとそうでもない。これまで通り、学校には来てもらって、それでどうしてもそっちの方で休まないとあかんっていうときには、休んで頂いてもかまいません。」
「先生、すみません。ご迷惑をお掛けします。」
里美が丁寧に返した。
「普通の小学生では、経験できないようなことを経験することはいいことやと私は思います。有利亜、先生は応援してるんやで。でも、仕事するようになったからって、成績を落としたらあかん。成績を落とすようでは、仕事の方をやめてもらわなあかん。勉強の方が大事やってことを忘れたらあかんで。」
里美も、有利亜も、はいはいと頷くだけで、時間が過ぎた。先生という職業は、つまりこういうものなのだろう。説法を説けば、自分の役割は終わりなのである。その後は、どうなろうと仕事の範疇ではない。
 放課後、有利亜は、児童クラブへは行かずに、里美の待つアパートへ帰った。今日里美が仕事を休んだのは、実は放課後に事務所の担当者が挨拶にくるというからだった。
「こんにちは、オーディションのときにもお会いしましたが、改めて自己紹介させていただきます。ライアンエンタープライズの糸山啓太です。有利亜さん含め10期生のマネージャーを担当させていただくことになりました。今後、事務所との連絡はすべて私を通して行ってください。」
糸山啓太は、少々緊張しているようだった。有利亜は、差し出された名刺を大事に受け取った。里美は、啓太を食卓の一席に座らせた。午後からの片付けが功を奏して、食卓も椅子も、山積していた物がなくなっていた。啓太は、出された麦茶を軽くすすった後、本題に入った。
「これからのスケジュールなんですが、実は当初の予定と大きく変更がありまして、有利亜さんには、今度年末に発売されますニューシングルの代表メンバーに参加していただくことになりました。大変急な話なんですが、どうにか、それまでにダンス練習とボイストレーニングを間に合わせていただきたいと考えております。」
その急な話に、有利亜も里美も脳がついていかなかった。今の今まで普通の小学生だった有利亜が、ほとんど1ヶ月後に、デビューを迫られていた。しかも、有利亜に本格的なダンス経験はない。二人とも無理だと思った。
「なんで、そんなに急な話になったんでしょうか?この前、合格通知と一緒に来た書類には、来年の4月にデビューするっていう話だったじゃないですか。はっきり言って無理です。まだ、小学5年生なんです。10歳なんです。ダンスもやったことないですし、そんな行き成り大人の世界に入っていけるなんて思えません。」
里美が噛み付いた。
「お気持ちはわかります、ですが、もうそういう方向で話が進んでますし、今更、有利亜さんが抜けることは、不可能かと思います。」
二人は返す言葉が見つからなかった。これが芸能界か。
「ダンスとボイストレーニングについては、来週から東京でレッスンを受けてもらいます。恐らく、デビューするまでは大阪に帰ってこれないと思ってください。これは最初の壁だと思ってください。どんなタレントだって、いきなり本番の時間が来るんです。有利亜さんの場合、それが少し早いだけなんです。」
いつの間にか啓太は、自分でも気付かない内に厳しい口調で話していた。この仕事が自分の今後を左右するのだ。それとバランスをとるために、逃げ道についても説明した。
「これは、このニューシングルだけの話なんです。その後は、他の10期生と同じように徐々に学校と仕事の両立を進めさせていただきます。ちょうど、有利亜さんの場合、大阪にLL-GIRLSの支部団体がありますので、今までどおりご実家から学校にも通えますし、レッスンや公演なども、できるかと思います。」
有利亜は、見慣れた光景から瞬時にアフリカのサバンナに瞬間移動させられたような気分になった。自分の周りで、知らない間に動きだす世界を感じることができるのは、人生の内でもそう多くはない。そういうときは、大概幸福なのだと、後から考えてみて思うのだ。


 東京へは有利亜一人だけで行くことになった。見送るために、駅のホームまで亮太が付き添ってくれた。亮太は、ずっとまだ彼の知らない東京の話をしていた。
「東京行っても、なめられへんようにせなあかんぞ。あっちの人間は、こっちの人間を馬鹿にしてるらしいからな。LL-GIRLSのニューシングル、絶対買うからな。ダンス頑張って覚えろよ。最近のアイドルは、踊りも完璧に踊れなあかんらしいからな。あ、そうや、もし、藤原結子に会ったら、サイン貰ってきてくれ!」
ずうずうしくも、妹にサインをねだる兄が、どこか滑稽だった。
 兄の願いを叶えるチャンスは、東京に来た翌日に早速訪れたが、有利亜はそれを実行できなかった。その日は、LL-GIRLSの3人、山口真紀、田中乙葉、藤原結子との顔合わせだった。
「鈴原有利亜です!よろしくお願いします!」
その時、意外に自分は快く受け入れられてないんだなと、直感で感じた。普段の生活でこの年代の女性と話すことなど、ほとんどない。保健の先生くらいだ。
「かわいいー。何才?こちらこそよろしくね。」
山口真紀は、LL-GIRLSでも最年長であった。
「10才です!」
その時の3人の顔は、最初の反応よりも良かった。あまりにも早熟の有利亜の容姿が、等身大の10才を語っていなかった。
 その後、3人はダンスのフォーメーションの確認などを行った。まだダンスのダの字もわからない有利亜は、隅でそれを見守っていた。まだ、緊張は取れなかった。あの雑誌の世界が実際に目前に広がっている。藤原結子のダンスはテレビで見たと同じように切れていた。けれど、素の彼女はテレビとはまったく違う。どこかサバサバしていて、男っぽい。怖い印象さえ受けた。決して大きくない身長に似合わず、次期センターのオーラが漂っていた。
 3人のレッスンが終わると、有利亜のレッスンが始まった。LL-GIRLSの総合振り付けを担当する道田由香子と2人だけになったレッスン場で、有利亜はみっちり踊った。
「有利亜ちゃん、とにかく時間がないから、ダンスの基本は置いておいて、今度の振り付けだけ完璧に踊れるようになろう。なるべく簡単な振り付けにしておいたから、十分踊れると思う。」
由香子は、今でこそLL-GIRLSに掛かりっきりになってしまったが、自身がダンスパフォーマーとして一線を退いた後、数々の有名アーティストに振り付けをしてきた。レコード大賞のダンス部門を受賞したこともあるのだ。ひとつひとつのなんでもない仕事をこなしていくこと、それが彼女のモットーだった。だから、今日もこの素人小学生に簡単な振り付けを教えるという、できれば他のアシスタントにやらせてもいいようなことも、嫌がらずに引き受けたのだ。
 有利亜は、由香子の言う振りを必死に覚えようとした。でも、頭では覚えられないことをすぐに悟って、何回も繰り返して体にその動きが浸透するようにもっていった。それでも、途中で考えてしまう場面が何回もある。呼吸をするように、食事をするように、人間の当たり前の行動を当たり前にこなすように、この振り付けを当たり前にこなすこと、それが有利亜のミッションだった。そういう宿題が出されると、彼女はそれに向かってまったくの寄り道をせずに突き進むタイプなのだ。
「うん、初めてにしては、いい感じ。次のレッスンは明後日だから、今日の振りはそれまで覚えておいてね。よし、じゃあ、今日は終わり!」
その後、啓太がホテルまで有利亜を送っていった。この先1ヶ月はホテル暮らしになる。そもそも、有利亜にとってビジネスホテルは初体験だった。 「明日は、7時からPV撮影とか、取材とかがあるからね。それまでに支度してロビーに降りてきて。」
啓太はそういうと、そそくさとホテルから出て行った。渡されたルームキーを右手に、左手には途中のコンビニで買ったお弁当。背中には衣類のぎっしり詰まったリュックサック。この状況をどんなに客観視しても、有利亜はなんだか涙苦しくなってきた。ここで泣いたらあかん。有利亜は、部屋番号703号がどこの階にあるのかを、フロントの受付係に聞いて、エレベータに乗り、急いで部屋に入った。
部屋は空気が動いていない密室の空間だった。微かにボイラーの音と、どこかで水が流れる音がしている。非常に狭い空間、愛着のないベッドにシーツ。完全には明るくならない照明。有利亜は、誰もいない部屋でさめざめと泣いた。これから起こることなど考えられなかった、ただこの孤独な部屋に自分のあらゆる悲しみを詰め込んでしまっていた。
一通り涙を流したら、空腹が襲ってきた。買ったときは暖かかったのに、すっかり冷えてしまっていた。コンビニの弁当など食べたことがなかった。いつも里美の作ってくれる夕食があったし、里美のいない休みの日も自分で作って食べていたからだ。それにコンビニの弁当は、量の割りに割高だという点で、親子は一致していたのだ。それが、今唯一の食べ物になるんて。人は追い込まれるとコンビニ弁当までご馳走に見えてくるのだと、有利亜は自分で自分が可笑しくなってきた。満腹時のα波が影響して、鬱から解放された。このとき有利亜が得た教訓は、悲しくなりそうになったら飯を食えということだった。そうすれば仮初の幸福感が得られるのだ。
社会的人間は、社会の枠の中でしか生きられない。それぞれその枠の中で、全力を尽くすしかない。井の中の蛙は、井の外に憧れるものだ。外には何があるのだろう?どんな世界が待っているのだろう?他の誰かが作り出した既製の枠組みに守られているだけではあきたらず、自らが世界の創造主と成り得る未開拓地を追い求めるものである。しかし、人は、そのありふれた枠組みの中でしか生きられない。枠組みの外では、すべてのものが無意味であり、独りよがりどころか、まったくの一人なのである。それを井の中の蛙は知らない。有利亜も初めてそれを知った。自分の施された世界から飛び出してみて、独りの意味を思い知ったのである。この世のあらゆる人間は、自分を知らないのだ。
 その日は、部屋の小さな姿見で、覚えた振り付けを夜遅くまで練習した。音がないから自分で鼻歌を歌いながらだった。まだ、歌詞は知らなかった。自分のデビュー曲。どんな歌詞が歌われているのだろうなどと思う余裕はなかった。人に見せれるダンスをすること、LL-GIRLSに迷惑をかけないこと、最初でつまづかないこと、決して泣かないこと。今日一日で感じた自分の課題は、数え切れないくらいだった。
 次の日、ホテルの簡単な朝食を採ると、ジャージに着替えて糸山が来るのをロビーで待った。11月の寒い空気がロビーの回転ドアが回るたびに入ってきた。受付のホテルマンたちが、私語を話している。有利亜はそれを注意深く聞いていた。標準語だ。アイドルは標準語で話さないといけない、有利亜の中にそういう既成概念が生まれつつあった。標準語など話したことはない。そもそも標準語と言っている時点で、何か負けているような気さえした。東京に圧されている。
 啓太が迎えに来て、2人はタクシーで現場に向かった。着いたのは都内の私立高校。ここで今回のミュージックビデオ撮影が行われる。有利亜に台本が渡された。表紙をめくって1ページ目に自分の名前が書いてある。転校生役らしい。
「西島遥さん現場に入られます!おはようございます!」
次々に、LL-GIRLSが到着した。啓太が有利亜に、西島と蘭堂にも個別で挨拶しておくように言った。有利亜は、先に西島の方に挨拶に行った。メイク中だった。
「ああ、よろしくね。聞いたよ、いきなりで大変だと思うけど、がんばっていきましょう。」
軽い挨拶で、鏡越しだったけれども、テレビで見るような明るい印象が微かに感じられた。しかし、それにも増して目はうつろで、元気がないように思われた。このとき有利亜にはそれがなんなのか分からなかった。それが自分のやがて通る道だとも思わなかった。自分がやがて逆の立場になったら、もっとやさしく接してやろうと思っていた。
 蘭堂岬に挨拶したときは、まったく違っていた。蘭堂はテレビと同じように、のほほんと有利亜を出迎えてくれた。
「えー!うそー。小6!?ガキじゃーん。かわいい、よろしくね。」
いつだって自分のペースを乱さない、岬のプロ根性なのか、完全な天然なのか。有利亜は測りしることができなかった。とにかく蘭堂岬は、どこに行ってもこういう人間なのだと思った。こうだから、ここまで来れたのだ。有利亜は、蘭堂岬のことが一番好きだったが、実際に会ってみて、やっぱりそれは変わらなかった。でも、面と向かってそういうのは憚られた。岬は姉貴体質というよりかは、永遠に友達感覚、妹感覚の人間なのだ。すでに、有利亜は自分の方が精神的には上回ってるのではないかとさえ思った。
 撮影は、最初のドラマ仕立ての部分から始まった。有利亜が、まだ着たことのなかったセーラー服に身を包み、先生に連れられて朝日が垂れ込む廊下をそろそろと歩いてくる。いつもの始業前の教室の雰囲気の中に、新顔が登場し、教室は異様な緊迫感と、転校生への期待・疑問、そして嘲笑が溢れている。教室の中には、すべてのLL-GIRLSグループで構成された同年代の女の子たちが席に、思い思いの態度で座っている。遥は、生徒会役員もする優等生。岬は番長。結子はギャル。乙葉はムードメーカー。真紀は教室にはいなかった。高校のOB役なのだ。有利亜が教室で言った第一声、それがこの曲の主題となっている。
「始めまして、宇宙から来ました!」
曲のタイトルは“宇宙少女”。そこから曲のイントロが流れだすことになっている。ダンス部分は、有利亜がまだ不完全なので、有利亜抜きの部分を中心に撮影が行われた。休憩時間も、ダンスの振りを何回も練習した。有利亜に話しかける人はいなかった。全員が先輩であり、全員が年上、全員がライバルだった。夕方からは取材が数本入っていた。各雑誌が今回大抜擢された有利亜のことについて、情報を得たがっていた。 「LL-GIRLSに入ろうと思ったきっかけって何なんですか?」
髪を後ろで一まとめにした、大きな淵のメガネが似合う20代後半の女性雑誌記者。普通なら敬語など使わないのだろうが、この世界ではインタビューされる側が偉いのだ。有利亜は精一杯の標準後で答えた。
「LL-GIRLSのオーディションの応募用紙に、友達が私の名前を書いていて、それで憧れもあったので一度受けてみようって思ったのがきっかけです。」
「でも、オーディションに合格して、いきなりLL-GIRLSのシングル曲に参加するとは思ってなかったんじゃないですか?」
「はい、ぜんぜん考えてなかったです。でも、いつかはそこに立ちたいと思っていたので、不安はありますけど、精一杯やれたらって思ってます。」
「LL-GIRLSの中だと、誰のファンなんですか?」
本当は蘭堂岬だったが、波風を立てたくなかったので、嘘をつくことにした。
「皆かわいくて、全員のファンです。」
こういうあざとさを、有利亜は元来包含していた。あらゆる外部ルールの均衡の中で最善の道を導きだそうとする姿勢、それが彼女の最大の武器なのかもしれない。
 次の日は、午前中にボイストレーニング、午後からダンスレッスンだった。夜からはCDジャケットや、諸々の写真撮影。ボイストレーニングのときに、初めて歌詞を渡された。サイケデリックな題名とは裏腹に、青春の淡い恋の詩だった。


“宇宙少女”
北の方から流星がこの冬の静けさをかき消して
西に向かって一直線に君の存在を叫んでる
いつも盗み見してるその顔の
感情のその奥を知りたいんだ僕は
No doubt know分かってる 遠い惑星から来たことは
No doubt know分かってる 60億に埋もれる僕を
No doubt know分かってる 君の笑顔が見つめる先を
No doubt know 分かってる だから届かない宇宙少女

自転車通学ヘルメット、僕には必ず明日が見える
掃除しても捨てられない物捨てちゃったなら君になれる?
木星なんてどこにあるの?
科学と歴史の交わりにある異次元
No doubt saw 見つけたよ カラクリだらけのお化け屋敷
No doubt saw 見つけたよ 宇宙と僕との共通点
No doubt saw 見つけたよ この夢が覚めた後の空を
No doubt saw 見つけたよ それでも言えない宇宙少女


その次の日はまたミュージックビデオの撮影だった。なんとかダンスシーンを撮影することができて、有利亜はほっとした。そして、夜は写真撮影の残り。有利亜は保護者同伴ではないため、9時以降は名目上働くことができない。法律上は10時まで働くことができるが、移動時間などを含めるとマージンをとっておかなければならなかった。有利亜にはそれが悔しかった。未成年のメンバーでも、さらに遅くまで撮影に拘束されているからだった。自分だけ子供扱い。確かに、まだ入ったばかりだけれど、気持ちはもうアイドルだったのだ。
 今の有利亜にとって、行動原理は、目的よりも欲望に近かった。非情な欲望、一人前のアイドルと見られたいという。
 行き成りの仕事詰めの1週間が過ぎた。ついに最後まで、メンバーとは仲良くなれなかった。その日は休日だったれど、有利亜はホテルに籠もりっぱなしだった。コンビニの弁当にもすっかり慣れた。昼に啓太が様子を見に、ホテルにやってきた。
「外に行きたいなら、俺に言ってよ。」
啓太はそう言ったけれど、知らない東京の街に出て行く気にはなれなかった。
 里美はその日が有利亜の休日だと知っていたけれど、電話のひとつもかけなかった。電話を掛けたら、負けだという気持ちがあったし、1週間くらいで寂しくなっていたらこれからどれだけ心労が溜まるのかが心配だった。
 夜、もう寝ようかという時に部屋の電話が鳴った。ロビーからだった。有利亜がジャージのままでロビーに降りていくと、そこにスラット背の高い女性が立っていた。マスクで顔が見えなかった。山口真紀は普段からラフな服装でいることが多かった。その時も黒のスリムパンツに、量販店のライトダウンを着ていた。この地味な出で立ちが、有利亜に真紀を連想させなかった。
「オッス!飯食べた?」
ご飯は食べていたけれど、せっかくホテルまで来てくれた真紀に「食べてない」とは言えなかった。
「おお、ちょうど良かった。近くでなんか食べようよ。」
2人は、ホテルの2軒となりにあるファミリーレストランに入った。本当に近くだったから有利亜はびっくりした。
「なんでも、好きなもの食べていいんだよ?」
そういってくれた手前、頼まないわけにはいかなかったので、ランチメニューを頼んだ。
「どう?入ってみて。まぁ、皆意外とシャイな娘がおおいから、最初は慣れないと思うけど。ダンスは大変?」
「はい、ぜんぜんやったことがなくて。」
「まぁ、普通の人はやらないよね。でも、結構グループに入ってくる娘は、ダンス経験者多いから、ダンスできないと結構大変だと思うよ。私も入ったときはぜんぜんダンスできなかったから、気持ちは分かるよ。」
「そうなんですか!?でも真紀さん、すごい上手いです。私、今度のダンスも、簡単だって言われてたのに完璧にできなくて。」
ファミレスを出た2人は、真紀の希望でその辺を散歩することにした。街路樹の柳が妖しく風にゆれていた。その通りから一本入ったところに、コインパーキングがあった。
「あ、ここいいじゃん。」
真紀はそういうと、ひらひらと舞うようにそのコインパーキングに入っていった。
「合わせよう!」
そういうと真紀はダンスを踊り始めた。有利亜はそれが今度のシングル曲の振りだと気付いて、同じように踊った。
「私ね、ずっとアイドルになる夢諦められなくて、一旦普通の会社に就職したんだけど、最後のチャンスだと思ってこのLL-GIRLSの第1期オーディション受けたんだ。」
踊りながら真紀は話し出した。
「でも、やっぱり可笑しいよね。27歳超えてまだセーラー服着てる自分が、笑えてくるよ。しがみついてるだけなのかもしれないって時々思うんだ。そういう気持ちがメンバーに伝わるのか、私も中々LL-GIRLSに溶け込むことができなかった。必死すぎたんだよ。たぶん。」
最後の振りまで終わると、真紀は有利亜の方に向き直り、ニッコリ笑った。
「遠慮してたらダメだよ。皆同じスタートで、皆ライバルだから。」
最年長という十字架を真紀はずっと背負ってきた。それは一種の孤独であり、しかしそれが個性でもあった。そのあやふやな個性にしがみついてやってきた真紀だからこそ、有利亜の孤独を見つめることができたのかもしれない。

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