第4話 「経済リンチ」
都営大江戸線・新御徒町から大門方面へ26分で麻布十番に着く。麻布十番駅から徒歩15分、そこに六本木ヒルズがある。山井真一は、毎日この経路を往復している。六本木ヒルズ内の成金住宅に住む選択もあったが、衆目を集めるヒルズ族に仲間入りするのは気が引けた。自分は闇でのさばるのが丁度いい。常にそういう天邪鬼な一面を背負っていた。時代の寵児と担ぎ上げられた若手経営者が逮捕された後、このビルも一時期穏やかになったのに、それでも馬の骨とも知らないタレントが酒池肉林の乱交騒ぎで大金星を挙げるなど、ブランド力に群がる連中の破廉恥は留まるところを知らない。



真一がこのビルにオフィスを構えたのは5年前のことである。それまで丁寧に育ててきた事業が、やっと拡大方向に向かい、社員の数を大幅に増やすとそれまでのオフィスが手狭になった。彼は、IT企業の社長なのである。
インターネットの収益には大量の広告が絡んでいる。広告は普通、メインコンテンツにお詫び程度に付随するものである。メインコンテンツは、ソーシャルネットサービスであったり、検索サーチエンジンだったり、投稿動画だったりする。しかし、真一はその広告自体にスポットを当てた。今、どのような企業広告、商品広告がインターネットに流布しているのか、それをまとめればインターネットの今が見えるのではないか?インターネットに人々が求めるものは、「無限に語られる今」なのだ。そこが辞書とは違う。言葉を調べるだけなら、辞書でも十分足りる。でも、辞書には普遍性しかない。紙媒体で超えられない壁を、インターネットは軽々と越えた、それが“同期性時代”を物語っている。
真一はインターネット広告を検索できるサイトを立ち上げた。ネット巡回プログラムが24時間、ネットのありとあらゆる広告を探しまわる。利用者は、それを新着順で見ることもできるし、人気順で閲覧することも可能で、ワード検索で特定の広告を探すこともできる。その無数の広告の中に、真一の会社「アサイドフロム」が契約している企業広告を忍ばせるのである。こうすれば、需要者にピンポイントで広告を提供することができる。
真一の作ったこのサイト「アドスティック.com」は、たちまちネットで影響力をもつようになった。当時大学生だった真一の生活は一変する。様々な企業から資本提供の話があった、アドスティックの特許権化は急務だった。なりゆきで特許を取得すると、自然と個人事業から進展せざるを得なくなった。有限会社として、少数の社員を雇い始めたときに、真一は大学の情報工学部を中退した、3回生だった。
もうひとつの転機は、そのアドスティックに追加の機能をつけたことだった。コメント機能だ。その広告に興味をもって実際にサービスを受けた人、これから受ける人の情報交換の場としてアドスティックは欠かせないものとなった。それまで信頼性に欠けていたインターネット広告の地位を飛躍的に高める結果となった。その後、会社は株式公開を行い、晴れて東証マザーズに上場した。 会社が大きくなるにつれて、真一のワーカーホリックは加速した。一年365日、出社し、朝から夜12時までは必ず仕事をしていた。朝飯は通勤途中のコンビニで買うものの、昼と夜は食べなかった。そのために真一の机には、大量のお菓子が置かれている。女性社員にいつも十分な量のお菓子を買ってくるように言っていた。そういう社長の影響で、オフィスにはかなりのお菓子で溢れている。まるで製菓業と間違わんばかりだった。
もうすぐ30歳になる真一は、仕事一色の数年間を振り返る時期に来ていた。結婚はしていなかったし、その予定も、相手もいなかった。たまに風邪を引くと、人の温かみに触れたくなる。仕事終わりに風俗を利用することもあったし、接待でキャバクラに行くこともあった。それでも心の孤独は満たされない。このまま独りではいられないことくらいわかっていた。性格上、自分のために働くことには限界を感じていたのだ。ここまで会社を大きくできたのも、自分のためではなく会社のため、社員のため、ユーザーのためだった。事業規模拡大は、実生活に対する真一の態度を大きく変えなかった。どこにでもいるような若者が、そのまま一国一城の主となって、そのまま馴染むことなく現在に至った。その歪は、会社が大きくなるほど増幅していた。
「山井君、もうすぐ企画会議始まります。」
会社でも重要な役回りをすることが多い、SEの田中一郎が真一に声をかけた。真一のことは、皆“君付け”で呼ぶ。社長であって社長でない、真一はこの会社のマスコットじみた存在だった。
 その企画会議では、アドスティックに代わる次の戦略について話し合われる予定だった。というのも、このままアドスティックにばかり頼っていられないというのは全社的に蔓延している意見だったからだ。しかし、中々決定的な案が見つからないまま、その日まで来ていた。
「ネットユーザーは、ひとつのサイトに留まることは少ないんです。それだと効果的な広告を発信することはできない、だから複数のサイトで同時に同じような広告をうつことができればいいんじゃないでしょうか。」
ベンチャー企業に期待を込めて入社した若手の里山瞳が言った。
「なるほど。でも、そういうのでいうと、今もあるし、そういう広告って気味悪くてユーザーとしては積極的にクリックしようとは思わないんだよね。確かに、ネット閲覧の履歴を辿っていくっていうのはありだけど。僕らはアドスティックに代わる事業を立案しなきゃいけないんだ。もっと広い意味で提案がないかな?広告っていう分野にとらわれないで、ネット全体に目を向けたような、ブレークスルーがあればいいんだけど。」
真一は、自分でもそういって見て、かなりの難題だということを理解した。内心、自分でも形になるようなものは何も浮かばなかった。結局その会議では、何も出産することはできずに解散となった。陣痛促進剤のようなものが、この世界にもあればいいのだが。
 その日はそれからなんとなく集中力を欠いた。別の打ち合わせの予定を忘れてしまったし、承認が必要な書類がずっと机から離れなかった。気付くと手と脳が時間を忘れている。コーヒーを何度飲んだか知らない。それでも12時まで粘って、新しい企画について考えた。ソーシャルネットワークをさらに進展させて、知らない人々がお互いに助け合えるようなサイトを思いついた。だが、何か足りない。


 ビルから出た真一は、ふらふらと駅とは逆方向に歩き始めた。ちょっと夜風に当たりたかったのだ。黒々と、どろどろと続くアスファルトを辿りながら、赴くままに真一は歩いた。街路樹の欅が、わずかな枯葉を風に飛ばしていた。その黄土色と山吹色のアンコントラストが世界の広さを物語っていた。あの区別のつかない世界の一葉に、真一も、アサイドフロムも成り下がってしまうのか。埋もれていくのか。やりたいことをやってきたつもりだったが、最初の切欠以外すべてが“やりたいことに付随するやらざるを得ないこと”だったような気がする。それらすべてに埋没して、自分は年を重ねてしまった。世間ではまだ若いと言われるかもしれないが、確実に入れ物の中身は腐り始めている。
 広小路から一本入ったところに、お洒落とも古びたともつかぬバーがあった。中に入ると狭い空間にカウンターに対して数人が座していた。店員は一人だけだった。狭い東京の商品棚のような小空間に、肩を寄せ合い群がる麻痺患者達。これが都会の異常な情景を如実に現しているような気がした。真一はハイボールを注文した。時計を見るとすでに2時を回っていた。知らぬ間に冷え切った体が、室内暖房により解けていく。日本の四季は、日本人の躁鬱体質をそのまま表現したかのようだと、真一はふと思った。この温度差には耐えられない。

「見ない顔ね。」
ひとつ空いてその隣に座っていた女が話しかけてきた。まだ20代のようだったが、艶かしい魅力を秘めた女だった。ドラマのような大人な展開に、半ば幽体離脱したような気持ちで、真一はまるで答える気のない態度で、それでも全てを暴露した瞳でじっと彼女を見つめた。
「ふん。明日が見えない顔してる。ここにいる皆がそうだけど。貴方は得にそうね。」
女は、自分のグラスを真一のグラスに当てた。
「乾杯。」
何も、一言も話してないのに、何も話さなくていい、全てを理解した気になっているこの行きずりの女が、急に楽な存在、まるで機械のような無機質なものに思えてきた。その女の反対隣に座っていた中年のスーツ姿の男、もうずいぶん酔っ払っていたが、彼が真一に話しかけて、長々と話始めたときには、もうすでに真一のすぐ隣の席に彼女は移っていた。こんなに温もりを感じられる距離まで、人と近づいたのはどれくらいぶりだろう。二人の見ず知らずの人間に両脇を固められ、真一はまるで母親の子宮の中で胎動しているような気持ちになった。何も生み出す必要はなかったのかもしれない、自分さえ生まれ変われれば。
「お前さん達、まだまだお若いから、こんな話は知らないだろう?ある二人の炭鉱労働者がいてな。現場でたばこを吸っていたそうなんだ。隠しもっていたタバコは2本。その内一本を仲良く交互に吸っていたそうなんだが、どうも均等に吸うことができないわけさ。だから、次の一本はもっと上手くやろうって話になったのさ。でも、その内の一方が、そもそもタバコは2本あったのに、なんで最初から1本づつ分けなかったんだろうって言い出したんだ。残りの一本は、どちらか一人が吸うことにしたらどうかってなったんだ。だって、そのほうが吸った方は満足だし、吸えなかった方も納得できるってな。そこで、さっきのタバコで、どちらが多く吸ったのかって話になったわけさ。でも、時間を測ってたわけじゃないし、お互いになんとなく時間が違うことはわかってたけど、確信はなかった。結局、同じだけ吸ったっていうことになって、次の一本は、吸わないことにしたってわけだ。」 「変な話。元々2本あったのに。」
女は、口を尖らせて言った。
「この話には続きがあってな、次の日、二人は3本のタバコを用意したのさ。こうすれば、お互い1本は確実に吸える。そうして、公平に残りの一本はどちらも吸わないのさ。」
その一本は、結局なんのためにあるのだろうか。二人の公平のためだろうか。では、その公平は何のために必要なのだろうか。公平は、タバコ一本を犠牲にして得る価値のあるものなのだろうか。ここで重要なのは、公平とはお互いが必ずしも均等に利益を分配すれば得られるものではなく、お互いが均等に不利益を被って初めて得られるものだということである。真一はなんとなくそれを悟った。  その中年のサラリーマンがつい呂律が回らなくなって、カウンターに突っ伏したとき、女は真一の腕に腕を絡めて、極力甘くささやいた。
「ねぇ、飲みなおさない?」
二人は何も言わずに、すっかり湿っぽくなった深夜の細道をふらふらと彷徨った。コンビニの明かりに誘われて、そこで女はアイスを買った。歩きながらそれを食べる深紅の唇と、アイスの乳白色を、真一は目で見たのか、想像したのかもはや覚えていないが、気づくと強引に女の唇に自分の唇を押し当てていた。 動物愛好家には2種類存在する。生物学的に興味を示すものと、疑似人間としてそれを愛でるものだ。前者は圧倒的に少ない。結局のところ人間は、人間及び人間社会にこそ一番の関心があるのだ。無生物と人間を比べれば圧倒的だ。その意味で、すべての人間は性別を問わない人間愛を根源的に兼ね備えている。もちろんその基盤の上に、異性への愛もあるのだが。しかし、それは無機的な世界と比べれば、大きな差でないことに気づく。

女が女でなく、実は男であったことに気づいたときには、もう遅かった。真一は裸でベッドに仰向けになっていたし、おとこ女は、自らのカミングアウトを最も衝撃的な形で表現してしまっていた。真一は当然驚いたし、逃げることも考えた。しかし、そんな彼の既成概念とは裏腹に、決して萎えない性欲があることに気づいたし、それが人類愛であることも確信した。右肩にできたニキビをおとこ女が甘噛みしたとき、得も言われぬ快感が強制された。それは、新たな扉を開け、世界に解き放たれた開放感に似ていた。視野を広げることで、世界はいか様にも変化するのである。ニキビというカラダのバグを刺激することも、どこかそういう裏付けがあったがためなのかもしれない。

漆黒の部屋、そこは外装こそ新しくは見せかけているが中はどうみたって時代を経た匂いを隠せないでいて、そこで二人の男が純粋な世界だけを見つめようとしていた。しかし、そこには結局、リアルな絡み合い、常識外れの摩擦が奏でる生々しい摺動音が不規則に続くのである。悪夢でしかない。悪夢以外で形容することは許されない。世界を裏返すことはできないのだから。



翌朝、真一が出社すると、オフィスは不穏な空気に包まれていた。一瞬、昨日の夜のこと、秘密の非行のことが頭を過ったが、それとは違うことを確信した。アサイドフロムの株が大量に買い付けられていたのだ。大量保有報告書には、インターネットポータルサイト大手の「サスピシャス」の名義が認められた。
「これは、サスピシャスによる敵対的買収です。」
顧問弁護士はそう語った。そう言われなくても、なんの事前報告もないのだから、そんなことくらいは真一にも察しがついていた。
「どうすればいいんですか?」
心身動転した真一は、素人同然で聞いた。
「自社株を買い戻すか、もしくは、他の大口資本家を頼ることも考えられます。新株を発行してサスピシャスの保有率を下げることもできますし、今の時点ではあらゆる手段が考えられます。どうされますか?」
「少し考えます。少し考えさせてください。」
会社の危機が、こうも露骨な形で襲ってくるとは思っていなかった。世の中の潮流とかに晒されて徐々に衰退するのならわかる。でも、今回のようにあからさまに会社を、真一の作り上げたシステムを奪われようとしている事態は想像していなかった。想定外だ。アサイドフロムの役員をすぐに招集した。法務全般を担当している小林茂、SE部門のトップ・田中一郎、人事責任者の兵頭一。これに真一を加えた4人は、オフィスにある会議スペースでがん首をそろえて唸った。そのスペースにはパーテーションがなく、打ち合わせの様子を、社員全員が気配で読み取ろうとしていた。
「サスピシャスの狙いは、間違いなくアドスティックの特許だと思います。前に、一部分でのライセンス契約の申し入れがありましたし、それができなかったから今回、会社ごと買おうっていうことかと。」
小林茂が言った。
「いや、向こうの狙いとしてそうだと分かっているのなら、こっちも手段を選択するのにそれに応じた方法をとればいいんですよ。」
兵頭一が言った。兵頭は、さっきから首元をしきりに掻いていて、その辺りが真っ赤になっている。贅肉のよくついた皮膚からは、朝だというのに汗がにじみ出ていた。
「どういった方法なの?」
「焦土作戦です。つまり、パテントだけ別会社に移すんです。そうすれば、この会社になんの魅力もなくなってしまう。大金を出す意味がなくなってしまうってわけですよ。」
兵頭の提案に、3人だけでなくそれを注視していた全社員が生唾を飲んだ。
「それって、法的には問題やり方なの?」
真一が小林茂に聞いた。
「そうですね。株主に損害を与える可能性があるので、役員は刑罰の対象になるかもしれません。しかし、ひとつの手だてとしては、私はやる価値があると思います。パテント本体をペーパーカンパニーに移して、そことライセンス契約の形で事業を行う形でも問題はありませんし。そうだ、この際そのダミーを税制の緩いオランダに移して、節税対策に役立てる方法もありますよ。いずれはやらないといけないと思っていたんで。」
小林茂がこう提案したとき、社内はどこか明るい雰囲気になった。これで買収対抗策だけでなく、プラスアルファの効果も得られるかもしれない。その打ち合わせでは、他にホワイトナイトを探すという案を同時に進めるという方針が決まった。
「とりあえず、僕は、サスピシャスに連絡をとってみます。できれば、直接話し合ってどういう意図なのかも知りたいし。」
真一は、一時期の緊迫した状態を脱した勢いでそう言った。何も、向こうが敵対しているからといってこちらも喧嘩腰で挑まなければいけないわけではない。それに、日本ではM&Aの成功例はほとんどなく、サスピシャスとしてもそれは重々承知で、交渉テーブルに持ち込もうとしているのは目に見えていた。



 翌朝、早速アポが取れたので、真一と小林茂は、サスピシャス本社に乗り込んでいった。
「初めまして、サスピシャスホールディングスCLOの本条圭一と申します。この度は わざわざ弊社まで御足労いただき、痛み入ります。」
小林茂は、“向こう”のトップが同席しないことにやや不快感を覚えたけれども、ビジネスの場では重要な決定をわざとその場で決めさせないためにトップが交渉のテーブルに同席しないことは定石であり、そういう意味で真一がわざわざ相手の本社にまで出向いたのは失敗だったと思った。向こうに素人だと思われかねないし、その気おくれ事態が交渉に影響しかねない。もう、交渉は始まっているのだ。
「我々は、御社のとられた買収行為に対しては遺憾に感じております。御社の買収行為に対しては、我々も対策を講じるつもりです。ご存じかとは思いますが、日本での敵対的買収の成功率は極めて低いのです。それを踏まえていただくと、今回の件で御社と弊社の双方がwin-winになる可能性は極めて低いかと思います。」
小林はそう話しながら、本条の様子や、その他のサスピシャスの社員の様子を伺っていた。小林の演説には、うなずくだけで返答が返ってこなかった。カタカタとパソコンのキーボード音が続いた。 「御社の目的は、なんなのでしょうか?」
沈黙を破り、真一が単刀直入に聞いた。すると本条がその重い口を開いた。
「それは申し上げられません。ただ、今回の件以前に、弊社は御社のアドスティック関連のパテントについてライセンス契約の申し入れをしております。その申し入れに対して、前向きな回答を得られなかったことについて、弊社マネジメントチームは残念に感じておりました。弊社の運営しておりますポータルサイトは、日本だけでなく世界にも影響力のあるプラットフォームとなりつつあります。御社の開発された広告検索エンジンは、弊社にとって非常に魅力的でありますし、それをさらに発展させることができると確信しております。」
やはり、アドスティックのパテント狙いなのかと真一は思った。あの時、真一は自分の唯一の懐刀である、アドスティックを他人に奪われたくなくて、ビジネスの交渉にすら着こうとしなかった。商売の定石を外しては生きていけないことを、真一はまだ知らなかったのである。あの頃の真一には決定的なアイデアがあって、それだけで食えると思っていた。だが、それだけでは起爆剤にしかならなくて、燃やし続けるために無限の肥やしが必要だったのだ。
 それ以上その交渉は進まなかった。ただ、最後に本条は通り一遍の調子で次のようなことを言った。
「弊社は株主様の資本の最大化のために最善を尽くしているだけです。決して個人的な恨みなどではありませんし、御社も同様の理由でご尽力されていることと存じます。残念ながら今回は最悪の場合、ゼロサムゲームになる可能性があることをご承知おきください。」
その言い回しと、引き攣ったビジネススマイルが真一に最悪の可能性について、地獄を見るよりも明らかに、鮮明に想像させたのだった。 真一が帰社すると、彼の蒼白の顔色を察して、オフィスは真剣に緊迫した雰囲気を漂わせた。本当に、ダミー会社にパテントを移転するしかないのか?真一は、まだそのレベルの決定で引っかかっていた。今までやってきた体制になんら問題があったわけではないのに、あえて会社の根幹を複雑にするような体制をとらなければならないなんて。確かに、アサイドフロムはこれまで外部からの攻撃に対する予防策を何一つとってこなかった。相手があればいつだって買収されてもおかしくない状態だったし、それでもこれまで業界とは折衝の必要なしにやってこられたのだ。この一件が、またひとつのアサイドフロムが乗り越えなければならない壁なのかもしれないと感じていた。
翌日、真一はリストアップされたホワイトナイト候補の社名の羅列を眺めていた。どれも資本力があり、アサイドフロムと競合しない企業ばかりだ。しかし、例え競合しないとしても、会社に影響力をもつことは確かで、真一にとって本当に信頼できる企業を見つけ出すことは困難なように思われた。――やはり、焦土作戦しかないのか。
「小林さん、例のダミー会社の案件進めてくれますか。どうやら、それしかないみたいなんで。」
真一は、早速小林を呼びつけて指示を出した。


その夜は、焦燥感からか定時後すぐに退社した。スーツを脱ぎ捨てると、落ち葉のようにベッドに横たわった。全身の力が、ベッドに吸収されていく。少しうとうととして、気づくともう夜の11時を回っていた。真一はテレビを着けた。テレビを見るなんて何か月ぶりか?見ないなら捨てればいいものを、最も簡単な情報収集ツールとしてのテレビを、真一はどこか信頼していた。この時間、ニュース番組はなく、深夜のバラエティか、スポーツ番組しか放送していなかった。

「はい、大阪生まれの大阪育ち、たこ焼き、串カツ、お好み焼き!みーんな大好き10期生の鈴原有利亜です!」
そこには、幼さとキャッチーさが混在した、得体のしれない女の子が写っていた。LL-GIRLSの冠番組「どっち見てLL」で、有利亜が初登場していた。最新シングル“宇宙少女”の打ち上げも好調で、若干10才にしてLL-GIRLSのシングルに参加したという話題性も功を奏していた。真一は、その時点で有利亜の大きな可能性に気が付いたし、アイドルとして素養の高さを感じた。しかし、それは彼の日常生活からはかなり遠い存在だったし、ニヒリズム的要素の強い真一にとって、所詮液晶画面の向こう側で起こっていることに過ぎなかった。しかし、それでも十分に有利亜は真一を惹きつけたといって良かった。そして、この最初の印象は、どれだけ時間が経過しても真一にとって劣化しない唯一のものとなってしまった。
有利亜は、本当のダイヤの原石なのだ。ただ、それは薄氷のダイヤで、決して宝石になりはしない。加工なんてできないし、輝きもしないのだ。ただひたすらに透明で、カッティングによって多面性を魅せることもなく、そのまま一様に映えているだけなのだ。彼女に必要なのは、ただ光の向きだけであって、それ以外もう何も必要としないし、未完のまま壊れやすく凍り付いているだけなのだ。



翌朝、真一は、あの4人だけの役員打ち合わせに出席した。
「ダミーの登記ですが書類の方は今進めています。同時に、特許庁への申請書類も作成しています。そこでなんですが、ダミーの会社に誰の名前を使うかっていうことなんですが、社長が兼務するという形は、あまりにも安易すぎて、恐らく直ぐに足がついてしまうと思うので、この内の誰かの名前にしたいのですが。」
小林茂がそう言ったとき、兵頭一が咳払いをして切り出した。
「それについては、第3者名義でも、なんでも言いわけだよね。社長の名前がダメなら、役員の名前でも当然ダメなわけで、どこかの名義貸し屋に頼んで、名義を貸してもらうのがいいと思うけど。」
兵頭がそう言ったとき、そこにいる全員がその“名義貸し屋”という怪しい商売に疑念を抱いた。が、しかし、アサイドフロムに入社する以前から人事業務に携わってきた兵頭の意見は、この会社で絶大な発言力を有していたので、誰もそれを指摘することができなかった。
「じゃあ、兵頭さん、その名義貸しについては、頼みます。」
真一はというと、こういうことには滅法、無頓着であった。兵頭の提案した名義貸し屋の正体は掴めなかったが、翌日の再度の会議のときには書類は完全な状態で用意されていた。
「サスピシャスは依然として当社の株を買い増しています。先日の社長直々の警告に対しても明確な対応が見られませんし、この書類で形をつけるしかないですね。」
小林が言った。昨日は夜遅くまでこの作業に追われていたのか、目の下の隈が疲れを物語っていた。
 そのとき、会議スペースに役員でない社員が近づいてきて、報告した。
「あの、サスピシャスの取得割合が出ました。」
「おお、で、どうなってる?」


「38%です。」


その異常な数字に、一同は絶句した。役員の解任を決議できる50%まではそう遠くない確実性のある未来として、その数字は予見していた。
「38%だと!?38%!なんてことだ。うそだろ!?」
真一は、狼狽した。想像していたよりも深刻な状態だったからだ。サスピシャスは本気でアサイドフロムを買おうとしている。日本財界史に残るM&A劇になってしまう。
「落ち着いてください。こっちには焦土作戦があります。今すぐ、最後通告を突きつけましょう。これ以上買い増すと、資本の無駄になるってことを知らせないといけない。」
小林が半ば叫ぶようにして言った。
「これが新自由主義か。なんてことだ。こんな無法がのさばっていいわけがない。」
小林は、急いで部下に書類を郵送するように命じた。真一の冷静さを失った態度に、社内がざわつきだした。これを不安に思った田中と小林は、急いで真一を階下にある医務室に連れて行った。
「働きすぎです。単なる、その、働きすぎです。のめりこみ過ぎ。ちょっと、ワーカーホリックが過ぎたんですよ。そうじゃなきゃ、あんな常軌を逸したような態度はとろうはずもない。」
田中は言った。小林も、それに同調した。真一はベッドに横になり、常駐の医師から鎮静剤を注射され、一時的に眠ってしまった。それを見届けると、二人は医務室を出た。
「ただね、田中さん。俺はあの焦土作戦が成功する方にはかけていないんだよ。」
「それは、どういうことです。」
「焦土作戦を仕掛けても、サスピシャスがこのまま50%まで買い増せば、俺たちは解任だ。そうなれば、ダミー会社だって危ない。特許だって危ないのさ。それに、ダミーとはライセンス契約しているこの会社を乗っ取ってしまえば、ダミーを手に入れなくてもサスピシャスの目的は達成されてしまっているんだ。」
「じゃあ、いよいよとなったら、ライセンス契約も切るしかないですね。」
「いやいや、もうそうなったら一か八かの交渉しかない。会社をとるか、パテントをとるかの究極の選択だよ。」
「そんな。どっち選んだって、先がないじゃないですか。」
「先はないんだ。先はないんだよ。こうなる前に、やらなければいけないことがあったんだ。俺たちは、まっすぐ進み過ぎた。交差点にも気づかずに真っ直ぐ、真っ直ぐ突き進みすぎたんだ。道はどこかで終わっているのにな。」


二人がエレベーターに乗り、オフィスのあるフロアで降りるとちょうどそこに兵頭一がいた。兵頭は、コートにマフラー、手には鞄を持っていた。
「兵頭さん、どこに行かれるんですか?半休でしたっけ?」
兵頭はすぐには答えず、エレベーターのドアが閉まり始めたとき、真剣な目つきで二人に応答した。


「辞めます。突然ですが、長い間お世話になりました。会社と沈むのだけは避けなければならないんですよ。お二人も、長居していたら巻き込まれますよ。今なら適正な退職金が出ますからね。」


ドアが完全に閉まり切ったとき、二人は唖然としたまま、その場から一歩も動くことができなかった。
「今、なんて言ったんだ?あの人、どういうつもりだ?」
田中は、異常事態の程度を測りかねていた。なにしろ人事部門のトップが逃げたのだ。オフィスに戻ると、フロア中の電話という電話が鳴っていた。別の社員が二人に報告した。
「サスピシャスの買い占めで、株価がストップ高になりました。その影響で、すごい問い合わせの数です。応対しきれません。」
田中は、電話の嵐の中を歩いていき、兵頭のデスクを見た。その上には辞表が置かれており、その他はすっかり片づけられていた。すぐに、田中は権限を書き換えて社内の人事情報管理サーバーにアクセスした。兵頭に通常の退職金が支払われているのを確認できた。
「昨日や今日の話じゃないですよ。兵頭さん、前から辞める予定だったみたいです。退職金の引き落としが今日になってるのも、辞表があるのも、いつからわかっていたんだ?」
田中は、小林に言った。そのとき小林は、血の気が引くような感覚を味わった。
「おい、例のダミー会社の名義は大丈夫か?」
小林は、ダミー会社の登記を作成した社員に聞いた。
「兵頭さんが、もってきた資料通りに、名義を記入しました。あった、これです。登記上は、この人がダミー会社の社長です。」
小林は、震える手を制しながらそれを手に取った。
「夏木洋一。誰なんだ、こいつは。」
聞いたことがなかった。それにしても、嫌な予感しかしなかった。
「この夏木洋一っていうのが誰なのか、至急調べてくれ。」
「わかりました。」


小林は、オフィスの真ん中で立ち尽くしている田中のところへ歩み寄った。
「とりあえず、今日のところはこれ以上、悪いことは起こらないだろう。田中君は通常業務に戻って。また、明日の朝、社長を交えて対策を協議をしよう。」


夕方になり、一時の電話が収まったとき、真一が医務室から戻ってきた。
「小林さん、ご迷惑をお掛けしました。」
「もう大丈夫なんですか?」
「ええ、注射のおかげで、頭がすっきりしました。悟ったみたいですよ。」
「あの、病み上がりのところを蒸し返すつもりはないんですが、兵頭さんが辞めました。」
真一は、怪訝な顔をした。今度は、小林と同様に血の気が引いた感じだった。
「何かを知っていそうですね。兵頭さん、サスピシャスと裏でつながっていたのかな。」
そのとき、電話応対をしていた社員が小林のところに駆けつけてきた。
「小林さん、井上製薬からスポンサー契約を解除したいとの申し入れがありました。」
「何?どういうことだ?」
「おそらく、買収事件で、アドスティック自体にマイナスイメージが着くことを見越してだと思います。」
「これからまだまだ出そうだね。スポンサー契約解除。」
真一は、他人ごとのように言った。そういう態度でしか、現在起きているすべての“些末なこと”に対処できそうになかった。すべてのことに気を取られていては、体が八つ裂きになってしまう。
定時過ぎ、小林から命じられていた社員が報告した。
「夏木洋一という人物ですが、どうやらブローカーのようです。主に破産手続きなどの案件で高い業績を上げている仲介会社の社長です。」
「何?ブローカー?」
小林は、信じられないという顔で、椅子に座ったままぐったりしてしまった。夏木洋一は、倒産した企業などから資産を安く買い取って売りさばく、業界ではその名を知られた人物だった。またの名を、“企業ハイエナ”。
「山井君、大変です。このままだと企業ハイエナにパテントごと売りさばかれる。」
そのとき真一は、再びの発作を覚えた。何度落胆すれば、何度これを繰り返せばいいんだ。
「なんてことだ。詰んだ。詰んじまった!こんなことが、こんなことが起こっていいはずない!」
真一は身を引きちぎられるような思いで、やっとのこと立ち上がり、青白い顔をしながら、たどたどしく会議スペースに歩いていった。
「全社員を集めてください。今すぐ対策を協議しましょう。全社的なブレインストーミングが必要のようです。」


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