第5話 「Let's make up」
死に値する罪など、この世に存在しない。死刑は、法治国家がその形を保つために作られた質の悪い制度で、死刑の他にも法治民の退路を断つ法律は存在する。死刑が存在する限り法律は、物言わぬ殺人機械なのだ。



 早朝のニュースでは、最近汚職で辞職した都知事の報道や、和歌山で少女が行方不明になった事件、福岡の路上で起きた交通事故の被害者の身元が未だに不明だという事件、年始にかけて行われた大きなスポーツ大会の結果、豪雪のニュースなどが小奇麗に纏められてパック売りの野菜のように流れていた。夏木洋一は、大きく横に切れた目でテレビを除きながら、同時に朝刊をパラパラめくり、さらに朝食のカップラーメンを飲み込んでいた。今日は重要な案件がある。――アサイドフロムとの最初の交渉だ。


 どしゃぶりの雨の中、鉄平はひたすら壁に向かってボールを蹴り続けていた。今日の試合は散々だった。キックの精度が悪く、前線への供給がことごとく失敗した。おかげで東大阪少年SCは今季初めてリーグ戦で敗戦。この痛い一敗は、何も鉄平ひとりのせいではなかった。このところ試合が多く、チームの志気は低下していて、監督である健二の指示が徹底されていなかったのだ。しかし、それにもまして相手チームのエースストライカー・日置悠がチームの前に立ちはだかったのが大きかった。小学6年生ですでに身長が1m40cmはある長身で、オマケに足が長く、瞬足。悠がボールをもつと、ゴールまでまるでディフェンダーがいないかのようにスルスルと前線まで疾走してしまう。悠に対しては常に鉄平がマークしていないといけなかった。そうでないと、他のチームメートではワンタッチで抜かれてしまう。それだけ悠のファーストタッチは、洗練されていた。それは鉄平にとって初めての関所だった。


 24thシングル・宇宙少女のツアーが、東京、名古屋、それに大阪で行われる。そのために、有利亜は、LL-GIRLSのほとんどの曲の振りを覚えなければならなかった。お披露目の4月が過ぎ、だんだん大阪でのレッスンと学校の日々にも慣れ始めた頃だった。今でも、東京でのお披露目を忘れることができない。有利亜は、ほとんど他の10期生と同じ時を共有することなくその日を迎えてしまったのだった。有利亜と彼女たちとの温度差は、オーディションからお披露目にかけてのこの準備期間に日を追うごとに増していった。有利亜の感じる時間と、違う時間の流れが彼女たちにあって、それは他ならぬ有利亜への特別待遇が原因であることに疑う余地はなかった。
本条みゆきは、自分の才能をよく把握していたし、有利亜を一目見たときから、自分にはない才能、別の人種であることを感じていた。それがこの芸能界で評価されるなら、自分の才能だって評価されることも十分あると、確信めいた少女の直観で感じていた。だから、彼女は有利亜とは距離を置きながらも、どこか共感者たろうとしていた。一方で、樫木絵里は、念願のアイドルの入り口に立ち、これからという時に、横で猛烈なスタートダッシュを切った有利亜に対して少なからず妬ましい気持ちを抱いていた。樫木自身、オーディションに受かるまでは普通の高校生であり、有利亜のいきなりのプロ意識と対面することによって、アイドルになりきれていない未熟な自分を抱えていることに気づき始めていた。しかし、そう感じながらも、それまでの普通の感覚を尊重し、有利亜に対しては、ほとんど人見知りのように無視を貫いていた。権田理沙は、得意のダンスを武器にオーディションでも格別の個性を主張して合格した。それだけに、自分と同じ鳴物入りの有利亜に対しては、過剰な敵対心を抱いていた。しかし、権田自身、高校3年生であり、精神的に大人である以上他の10期の空気を悟り調和を促す役目に徹していた。しかし、この10期のリーダーは自分だということを早期に全員に知らしめなければ、この先自分の居場所がなくなってしまうという、危機感を募らせている一面も併せ持っていた。油井咲琴音は、元4期生だったが、学業を理由に一度LL-GIRLSから脱退していて、今回改めて10期合格者に名を連ねていた。琴音は、有利亜のことはもちろん遠い目で眺めていたが、しかし現状それどころではなかった。若干10歳の有利亜をフォローする余裕などなく、19才の自分の再デビューに対して精神的準備段階を貫くしか方策がないようだった。とにかく、彼女には余裕がなかったのである。そして、心に浮かぶあらゆる思いは、この自分の語られることのない波乱の境遇に対する熱量ばかりなのであった。三井さくらは、元8期生で、これまでに降格を繰り返してきており、ついに改めて10期生オーディションを受けさせるはめになったメンバーだった。その内心は、運営側への恨みや辛み、他のメンバーへの憎しみに似た感情や、自己の不甲斐なさに対するイラつきで、盤根錯節(ばんこんさくせつ)に陥っていた。

事件は、そのお披露目前日の、唯一全員がそろったリハーサルで起こった。何回やっても、全員の振りと、フォーメーションが合わなかったのだ。イラついた態度をとったのは理沙だった。ダンスのプロ意識が高い理沙にとって、この程度の振りで停滞している10期生のレベルに愕然とする気持ちもあったかもしれないが、しかし大きく占めていた気持ちは、明日のお披露目を成功させるために、全体の志気を上げるのは自分しかいないという気構えだった。誰に何を言えばいいのかわからないまま、イライラを募らせた理沙は、ダンスの先生がさすがに溜まりかねて、一番出来の悪かった石井由美に厳しい叱咤をしたときに、同じように叱咤するつもりで何か言おうとして、半分くらい癇癪に似た態度をあらわにしたことで表出した。
「ちょっと、いい加減にしてよ!いつまで経ってもこんなの終わんないよ!?」
「ごめん…なさい。」
由美は、ナイーブな一面を持ち合わせた女の子だった。年上の理沙に初めてこんなに厳しい言葉をかけられて、今まで同じ10期生だと思っていたのに、急にダンスの先生に豹変したことに驚いたし、第一自分の異常なまでの瀞さに、内心諦めかけていたのだった。それで、ついに由美はあらゆる苦しみから逃げ出したくなって、泣き出してしまった。理沙は、ため息をついて、それで何か言おうとしてしゃがみこんだ由美の肩に手をかけた。でも、理沙より先に、有利亜がはっきりと言った。

「泣いたって、ダンス上手くならないよ。」

それは、綺麗な標準語のアクセントだった。有利亜は、決して理沙や由美の方を見ずに、スタジオの一面に貼られている鏡ごしに、それを言った。その言い回しが、まるで10才の少女が言ったようなものとは思えない、別次元の冷徹さを帯びていたので、皆は一斉に有利亜の方を見た。
「ちょっと、それどういう意味?」
由美を責めていたのは、理沙も同じだったはずなのに、有利亜への無条件の敵意が彼女を反射的に駆り立てた。
「もう時間ないっていう意味。私たち、明日が本当のスタートやん、泣いてる子なんかスタート切れへん、それ以前の問題やと思う。」
それは、河内弁と標準語が混じったアクセントだった。
「一番年下のくせに。有利亜だって、私からしたら踊れているわけじゃない!それが、人に対する態度!?ちょっとくらい本郷先生に気に入られているからって偉そうに。まだ、10期はデビューしてないんだよ!?これから皆が協力して頑張っていかないといけないじゃない!」
理沙の言葉に、有利亜は何も言わなかった。ただ、唇を曲げたままうつむいていた。
「理沙、それちょっと言い過ぎじゃない?有利亜だって、自分から望んでシングルに参加したわけじゃないんだし。本来のデビューは明日ってことは有利亜も、理沙もわかってるはずだよね!?今から喧嘩しててどうするのよ。」
みゆきが、場を収めようとした。
「そんなこと言って、みゆきも有利亜が先にデビューしたこと悔しいって思ってるのよ!皆そうだよ!?この練習だって、有利亜がもっとスケジュール空いてればいっぱい時間とれたのに!?前日になってこれって、ありえない。全部とは言わないわ。でも、こういうことってはっきりさせておいたほうがいいと思うの。ここに来て、優等生ぶられても10期生全員のためによくないと思うし。」
理沙は、大股で有利亜のそばまで近づいた。
「いい!?被害者は、こっちなの!偉そうな口聞くな!」
そういった理沙の鎖骨あたりを、すごい勢いで掌底が見舞われた。それでのけ反った後を、有利亜は胸倉をつかんで、叫んだ。
「全部全部、うちのせい!?何も知らんのに、いきんなやぁ!」
その顔は紅潮して、振り乱れた髪と併せて、赤鬼のようだった。理沙はいきなりの有利亜の態度・爆発に、足の力が抜けてしまった。へたって、その場で立てなくなった理沙は、精一杯の反論をしようとしたのだった。
「どういう意味!?意味わかんないんだけど!?」
「ちょっと、二人ともヒートアップしすぎよ!」
ダンスの先生が言った。みゆきや、他の10期生も駆け寄ってきて、二人を引き離した。涙と涎でぐちゃぐちゃになっている有利亜の顔は、本当の10才の顔をしていた。みゆきは、そのとき初めて、有利亜が等身大の10才なんだということに気づかされた。社会性や協調性のない子供。それが、無理やりに箱の中に押し込められているだけなんだと。そのあとは もうリハーサルになんかにはならなくて、有利亜と理沙の熱が冷めるのに時間が費やされた。二人とも慣れない環境で、精一杯外圧に耐えながら、それでも堪え切れずに何かを見失わずにはいられなかったのだ。

 お披露目公演のとき、油井咲は堪え切れずに、泣いてしまった。積りに積もった思いが、その舞台に込められていたことを、ファンは何も予備知識を与えられずに知らされることになった。そのとき舞台上には、LL-GIRLSの5人もいて、藤原結子が「あ、もう一人知ってる顔がいる!」と言ったとき、三井さくらの顔はまたしてもアイドルらしからぬ硬直した銅像のようになってしまったのだった。さくらは、ひたすらに「頑張ります。宜しくお願いします。」としか言えなかったし、それ以外は到底口に出すこともできない、醜い感情だった。――絶対に見返してやる、報われてやる。

10期は、とてつもなく高い温度を内包しながら、その口火をきったのだった。

 お披露目から数週間が経って、有利亜もやっとレッスンで10期生の仲間入りを果たし、やや安定期に入ったころ。いつものレッスン帰りの道で、ちょうどそこは東大阪少年SCの練習場・市営グラウンドがあるのだが、とっくに練習時間が終わったはずの場所に、鉄平がひとりボールを蹴る姿があった。それを有利亜は遠いのに近いような、急激な望遠で気づくことができた。何か話しかけようとしたが、そういう雰囲気でないことは、状況から察することができた。鉄平は壁に向かって、何度も何度もボールを、泥と傷だらけのボールを蹴り続けていた。それは、何か宗教的な、殉教者的な行動のようにも見えるほど、規則正しく、絶え間なく続けられるのであって、傍から見ればそれが小学生だということを理解するのは容易ではなかったはずだ。それを見た有利亜は、何か自分と同じようで、違うものを感じた。陽の目を見ない鉄平の練習と、必ず陽の目を見ないといけない有利亜では、同じ練習でもまったく意味が違うのだった。
オーディションに合格してから有利亜の見ている世界は、大きく様変わりした。あらゆるものがアイドル活動中心に変わり、それまで普遍的に存在していた世界は二の次になってしまった。その中に学校の友達、千津子や鉄平がいる。今でも学校でいっしょに遊んだりはするけども、終礼のチャイムがなるとそれは、有利亜と彼らを隔てる面会時間終了のお知らせで、次の瞬間にはアイドル・鈴原有利亜の物語を綴らなければならない。小学校6年間がもうすぐ終わろうとしている。こんな状態になってしまったけれど、有利亜は残された時間を大事にしたいと思っていた。それ以上のことは望めないし、望んではいけない。だって精一杯の自分勝手を今、貫いているのだから。




真一は、その日の朝、珍しく定刻ぎりぎりに出社した。もうすでにほとんどの社員がパソコンをカタカタやりながら、寝ぼけから脱却しようとしている。それでも、今日はその朝の空回りした感じに加えて、異様な緊迫感があった。なぜなら、夏井洋一が今日、アサイドフロムに乗り込んでくるからだ。

先週、夏井がダミーを掌握しているということが発覚した後の、全社的なブレインストーミングでは多くの意見がだされた。それ以上に有意義だったのは、すべての社員、こと派遣社員やパートタイムに至るまでが、この会社の危機的状況についてのすべての情報を共有することができたからであった。それまで社内に蔓延していた、非公式の情報ではなく社長から直接語られた地獄絵図は、社員に事態の異様さと絶望感を与えるに十分だった。その週が終わり、今週に入ってから何人かの社員が辞めている。崩壊は徐々に進んでいるといってよかった。
とにかく、夏井洋一が不正にダミー会社社長の名義を取得したことは間違いなく、それを立証できれば、後は法廷闘争に持ち込めるという話になった。ただ、その前にサスピシャスに買収完了されてしまう可能性が高く、早期に夏井洋一と接触し、その違法性についての情報収集や、警告を行う必要があった。そこで、夏井洋一に連絡をとり、今日ファーストコンタクトをとるという段取りになったのである。わずかな期待ながら、もしかすると夏井洋一をアサドフロム側に取り込めるかもしれないという思惑もあった。夏井がサスピシャスからどれだけの金額を提示されて、今回の“仕事”を請け負ったのかはわからない。ただそれ以上の金額を提示できれば、夏井はそれで動く男だと誰もが予想していた。企業ハイエナなんて、とてもじゃないが情や血の通った人間の異名じゃない。

 午餐が過ぎ、ちょうどいいくらいに眠気が襲う時間帯に夏井は乗り込んできた。予定よりも2時間も早い。不意をつく作戦かもしれなかった。そもそも、時刻を指定してきたのは夏井だったのだから。
「はじめまして、アサイドフロム法務責任者の小林茂と申します。こっちが代表取締役社長の山井真一です。この度はわざわざご足労願い有難うございます。」
夏井は、通されたスペースが個室ではなく、パーテーションのないオフィスの真ん中にある会議スペースだということに多少の驚きを感じた。それに加えて、相手側のこの異様な空気、夏井は、今回のことで結果的に“招かれざる客”になってしまったということを誤差なく悟った。意外にも、夏井にとってそういう経験はほとんどなかった。なぜなら、夏井は倒産会社にとってみれば、捨てるしか手立てがないような資産を金や、流動性の高い証券に換える天使のような存在だったし、買い手からしてみれば、お得な商品を提示してくれる名うての商人だったからである。夏井の仕事には、一つのポリシーがあった。それは、売り手にも買い手にも得がある商売しかしないということである。だから、夏井の部下たちには、今回の仕事を請け負ったとき、一方的にアサイドフロムを苦しめるだけで、彼のポリシーとは反するゼロサムゲームになるのではないかという疑念があった。なにしろ夏井自身が法的リスクを承知で、介入する強制的な取引になりそうだったからである。それでも、部下たちが何も言わなかったのは、夏井が今回の件で損をするようにはどう考えても思われなかったからである。

「はじめまして、夏井洋一です。今回、御社が完全出資されたリードソース株式会社の代表取締役社長に就任させていただきました。」

この異様な自己紹介は、改めてアサイドフロムの社員全員を、過酷な現実と向き合わせることとなった。夏井の目は、細く、そして顔は懸命に笑顔を作っていた。それは、その真摯さは想像していたような“企業ハイエナ”ではなく、飛び込み営業マンに有りがちなそれであった。
「いきなりなのですが、その代表取締役就任については、弊社は承諾しておりません。これはその事実だけでも十分違法性のあることだと思うのですが。夏井さん自身は、違法性の認識はおありなのでしょうか?」
小林は、如何にも法務担当者らしく切り出した。しかし、夏井は直接的にそれに答えようとはしなかった。それどころか彼の言葉は、予想外になにか希望に満ちた内容だった。
「私は、これまで多くの企業の橋渡しをしてきました。それはご存じかと思いますが、倒産会社と、それを買う側の会社です。会社にとって倒産は一種の避けられない結末です。どんな会社だって、いつかは倒産する日が来ると思っています。要はそれが企業によって遠い未来か近い未来かの違いなだけです。そういう世界で生きてきたものですから、世の中の一般の価値観からすれば、到底全うな道を歩いてきたとは言えないかもしれません。でも、私は、その中で自分なりの価値基準で仕事をしてきたつもりです。そして、それは今まで一度も間違ったことはありません。」
夏井の目は、輝きを増した。
「リードソースは、非常に特殊な会社です。市場価値のある特許を保有していますが、それに伴う事業実態がない。そして私は、この会社の社長です。曲解すれば、私はリードソースをアサイドフロムに売ることができる権利を有している。」
「何を仰っているのかわかりません。リードソースは弊社の完全子会社であり、その社長であるあなた、これについては、弊社は認めたわけではありませんが、それは一先ず置いておいて、我々はあなたを解任する権限を有しているんです。つまり、いつでもリードソースを取り戻すことができる。」
小林は早口にまくし立てた。
「しかし、それには時間がかかる。なぜなら、私を解任しようとするなら、私は法廷闘争に持ち込むからです。」
真一は、なお笑顔を崩さない夏井に人間的な深淵を見た。やはり一筋縄ではいかない。
「3日です。はっきり言います。サスピシャスがアサイドフロムの議決権を掌握する株式割合まで買い増すのにもうそれくらいで足りると見ています。そうなれば、あなた方はどうすることもできない。つまり、この3日以内にできることを考えなくてはならないということです。そしてそれは、あなた方と我々の双方が利益を分担できる形で結論は出されなければならない。となると、有力な候補であり、唯一の道として、私自身を買収するしかないでしょう。」
「じゃあ、サスピシャスはどうなんです?サスピシャスは何が狙いであなたを巻き込んだんだ?」
「サスピシャスの狙いは、特許です。それはご存知でしょう?私が今、特許をサスピシャスに譲ってもいいわけだし、直接彼らが、あなた方を買収してもいい。彼らの思惑はその程度です。ただ、彼らが理解していないのは、私は現時点でどちら側の人間でもないということです。」
そういうと夏井は、席を立った。
「余り長い交渉は得意じゃないので。明日また来ます。」
夏井の言葉には、希望と課題が見え隠れしていた。まだ、逆転するチャンスはあるということ、ただそれだけで、真一の気持ちは上向きになった。
「小林さん、僕は上限額ギリギリまで夏井さんに提示しますよ。あの人なら、僕は信用できると思う。」
小林は驚いた様子だった。
「夏井洋一と取引をするつもりですか!?山井君、今回のことは完全に適法性を欠いているんです。事後にそれが明るみになれば、相当の損害賠償を請求する権利もある。しかも、3日でサスピシャスが株式を買収できるとは、私には到底思えない。」
「でも、完全に買収されてしまえば、後から損害賠償なんてしても、意味ないじゃないですか。会社は戻ってこないんだ。」
確かにそうだった。どうやら夏井と取引するしかないという雰囲気が社内を包んだ。
「じゃあ、具体的にどれくらいの額を提示すべきなんでしょうか。明日までにそれを提示できなければ…。」
「サスピシャスがどれくらいの額を提示したかが分かれば話が早いんですけどね。それを調べている時間ももうなさそうだ。」
真一は、席から離れ、腕組みしながらトコトコとオフィス内を歩きまわった。今回の一連の出来事でわかったことは、真一には技術的な側面でしか会社に貢献できないということであった。そして、ここに来てまた真一には手におえない判断が求められている。いったい、こういうことを日常的に繰り広げている連中、会社を売ったり買ったり、合併させたり、分解したりする、そういうハゲタカたちは、どういう思考回路で決断を下すのかが知りたかった。相手は、夏井洋一であり、彼もそのサバンナで生きるひとりなのだから、そこに少しでも近づかなければならないと思った。

翌日、何の結論も出ないまま夏井が訪れる時間までを無駄に費やしてしまっていた。正しくは、結論らしきものは数字として具体的に出したのだが、その数字に抽象的な説得力が加わっていないのである。
「山井社長、一日じっくりお考えいただけましたでしょうか?」
夏井は、昨日とは打って変わって、笑顔なくただ無表情に目を細めているだけだった。
「ええ、考えました。結論としては、当社の時価総額・約800億の半分はリードソースが保有する特許の利益と試算しまして、400億で取引させてください。」
400億という数字自体は、異常な高額だった。それは、保険の上に保険を重ねた金額であり、それで夏井が首を縦に振らないことは想定していない限度額であった。会社の価値を半分損なう危険性もあった。しかし、すべてを失うよりかは傷は浅いと判断した。これが人体なら、半分失った時点でほとんど即死であるのに。夏井は、ゆっくりと机の上に置かれた、その数字が羅列されている紙を手にとった。そして、それを手にとったときと同じ速度、かもしくはそれよりもごくわずかに速い速度で机の元の位置に戻した。それは、まるで手に取ったという事象の前と後で、外部に全く影響を与えないようにするかのようであった。


「はっきり言って、話になりません。」


その言葉は、ほとんど記号か暗号のように、オフィスを浮遊し、直後は誰もそれを理解しようとはしなかった。
「どういうことです?これ以上の金額は、もう我々には出すことができません。お分かりだと思うのですが。」
「いや、私は単に金額の話をしているんじゃない。出せない分は補ってもらう。山井社長、私がなぜ今回の仕事をサスピシャスから請け負ったと思います?」
真一は、それに答えることができなかった。
「私は、短期間でこれだけの成長をしたアサイドフロムという会社、そしてそれをほとんど一人仕事で成し遂げた山井社長の未来に期待したからですよ。私は400億がほしいわけではない。たとえば、取引相手が山井社長じゃなければ、間違いなく400億で承諾していたでしょうが、そうじゃない。私は、数字のためにリスクを冒したりはしない。あと一日あります。最後です。明日、アサイドフロムは喰われるか、首の皮ひとつで命拾いするかが決まる。」
そう言って、夏井はそそくさとオフィスを出ていった。社内の誰も彼の意図をつかめなかったし、弄ばれているような不快感を味わった。そして、それはあの“ハイエナ”の異名にふさわしい死体を屠る情景を連想させた。いよいよ、アサイドフロムはつぶれるのだ。

 ここ数週間、真一はほとんど通常の業務を怠っていた。アドスティック.comに代わる新しい事業についての事業立案の議論も止まったままだった。真一が、半ば諦めの気持ちで、自分の席に座ると、そこにちょうどその事業立案資料が散らばっていた。そういえば、そういうこともあったな、と真一はまるで過去を振り返るように独りごちた。

「皆さん、すみません。僕の力不足です。所詮、無理だったんだ。素人が作った会社は、業界のルールに食われるのが運命だったようです。」

「何を言ってるんですか!?まだ、終わったわけじゃない!」
田中が言った。
「いや、終わりました。ロスタイムで試合を覆すには、余りにも点差が開き過ぎている。僕はそう感じます。」
真一は、自分の机に散らばっていた、例の資料を拾い集めて、綺麗に揃えた。その小気味いいトントンという音は、まるで人の命がこと切れた一瞬になる音のようであった。
「どうです、最後くらい夢の話をしませんか?事業立案の話、今なら既成概念とかなしに考えられると思うんです。」
真一は、いつの間にか会社に化体していた自分が解放されて、あの無限の可能性を秘めていた大学生時代の自分にリバイバルしたように感じた。
「山井君。」

田中は、真一が最初に雇った社員である。真一の拙い技術力をカバーしてきたのは、いつだって田中だった。そして、真一の夢の地図を具現化してきたのも彼なのである。ひとつの季節が終わろうとしている今、その今、それはあの過去とどう違うのか、田中にはまったく理解できなかった。

「やりましょう!」

その田中の掛け声で、技術スタッフの方から一斉に動き始めた。それを見た、事務系スタッフの動きも加わり、全社員は自分たちのそれまでの、この会社での役割を果たすべく、明日来る崩壊のためにその日を全力で継続し始めた。まるで蝋燭が灯滅せんとして光を増すように、アサイドフロムはぐらぐらと自らを肥しにしてその日一日を減速することなく駆け抜けた。そして、終業後、従業員達はまるで明日も会社が通常営業し、そして明後日も明々後日も延々と定年までその会社で働くかのようにいつものように帰っていった。


 次の朝、株式市場が開くと同時に、アサイドフロムの株価は急上昇した。サスピシャスの保有割合は、すでに45%を超えていた。この割合なら単独でなくても、他の株主と歩調を合わせることによって会社を思う通りに操ることもできる。しかし、この数字に社内はまったくの動揺の様子が見られなかった。それは、1967年にセリグマンが発表した、継続する嫌悪刺激に対する無気力状態に近かった。


 昼過ぎに、夏井と、その関係者数名が最後の宣告をせんとして来社した。
「これで3度目になりますね。やり手の営業マンならどんな飛び込みでも同じ会社に3回訪問した、その3回目に初めて、そして必ず商談に持ち込むことができると言われています。私は、営業マンではありませが、今日は意味ある商談ができることを期待しています。」
そのとき、3回目と言った夏井は、その3回目の会社が、前の2回とはまったく別物の雰囲気であることに気づいた。そして、それは倒産直後のあの雰囲気に似ていた。
「夏井さん。私は、前回400億を提示させていただきました。しかし、400億という額を失うと、いくら特許を取り戻しても、アサイドフロムは回復不可能です。それなら特許を手放して、400億をとった方が賢明だという判断を下しました。」
真一は、正気を取り戻した顔できっぱりとそう言った。
「ほお、つまり取引はしないということですね。」
「いえ、取引はします。我々はリードソースと取引をします。」
夏井は怪訝な顔で、解せない様子を表現した。真一は、A4用紙が左端のホッチキスでまとめられている資料(そこには企画書の文字があった)を提示した。
「夏井さん、昨日、あなたは“私の未来に期待した”と仰った。つまり、それは社長である私に期待したのではなく、イノベーターとしての私に期待して下さったのだと思ったのです。私は、正直言って会社や商売のことについては素人です。ですが、起業の種を生み出すことには自信がある。それは、私が信頼している唯一のものです。」
「つまり、この企画書の事業の種と、特許を取引しようというわけですか。」
夏井は、笑顔でそう言った。


「私は、夏井さん、あなたと一緒にこの事業をやってみたいと思いました。そしてこのアイデアは、必ず市場にインパクトを与える。どうです?ハイエナから、バイソンになりませんか?追われるのも悪くない、追いつかれなければ。」


そう言った真一の顔も笑顔でいっぱいだった。しばらく、夏井はその企画書に目を通して、黙っていた。そして、連れの関係者にもそれを見せ、2、3語軽く言葉を交わした後、決定的に言った。


「いいでしょう。GOOD JOBです。私があなたに期待していたことは、これでした。本当にこれだったんです。ですが、まさか私自身を巻き込んでくるとは思わなかった。ふふ、バイソンですか。ですが、バイソンも逆上すればライオンを殺すこともある。」


夏井の差し出した右手に、真一は同じく右手で答えた。その日の遅くに、サスピシャスは、アサイドフロムの株式を50%超まで買い占めた。しかし、アサイドフロムにはもはや目当ての特許はなかった。アサイドフロムの全従業員は、リードソースに横滑りする形で、その雇用が継続された。夏井はその社長の席を真一に譲り、外部取締役として携わることになった。こうして、サスピシャスの買収劇は失敗に終わり、結果的に真一の会社を、そしてなにより真一自身を内面的に強くしたのだった。



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