第6話 「もぐら叩き」
巷には名前が溢れている。人の名前、犬の名前、店の名前、企業の名前。そのどの一つを持ってきても、自己と直結する名前は見つからない。自分にも名前がある。ただ、それは本当に自分の名前、つまり自己を表現する端的な言葉だろうか。名付け親は、名前に希望や未来を押し付ける。それは、はたして今の自分と大差ないだろうか?自分を表す言葉などない。自分の存在を証明することなどできない。自分と他人とを完全に区別することなどできない。それなのに、なぜこんなにも器用に他人を憎むことができるのだろう?他人を卑しむことができるのだろう?そう思うことによって、自己と他人の重複部分を否定するかのように。それは自己認識欲の顕著な現れなのかもしれない。人間が積み木のように粉々に分解できるものとすると、一度それをばらばらにして、別の場所でそれを組み立てる。はたして、それは分解する前の自分と同一だろうか?自分という存在を言い尽くす言葉がなければ、分解再構築後の自己の同一性をいかに表現できるというのだろうか?それが同一でないとするなら、人間が積み木でなくても、自分という存在は、一瞬一瞬の分解によって他人から他人へ乗り移る存在だと言える。自分を表現することなどできない。ただできるのは、自分という存在をすべてのものに見出すことだけなのだ。



“宇宙少女”の全国ツアーの千秋楽、西島遥が卒業を発表した。最後の曲が終わり、挨拶のときだった。いつになく間をあけて話す西島の様子がすごく真剣なことに、その会場の誰もが気づいたときには、もうその言葉の端まで来ていた。一番先に反応したのは、リーダーの田中乙葉だった。瞬発力のある彼女は、前々から予感していた遥の卒業に、大粒の涙で答えることができた。本当に起こってほしくないことは、事前に不謹慎にもメージトレーニングができているものなのだ。そうしないと本当に行き成りそれに直面してしまったら、自分にどれだけの被害が及ぶか想像できない。
LL-GIRLSの看板である遥の卒業は、間違いなく今のグループの全体的なパワーを削ぐことになる。やっとここまで来たのに、遥がいなくなればLL-GIRLSも変わらざるを得ない。後戻りはできないのだ。それでも、来た道をもう一度歩むことなんてできないし、やりたくもない。グループのこれまでの軌跡は、牽引してきた乙葉が一番痛感していた。

卒業する西島遥は、全国ツアーの後のファン投票には参戦しないことが発表された。一方でこのファン投票には、有利亜たち10期生が初めて参戦する。しかし、10期生は、有利亜や油井咲、三井さくら以外ほとんど知名度や露出がなかったから、投票されること自体が想定外だった。それよりもファンの中心的話題は、遥の抜けた穴に、誰が入るかということだった。次期エース候補の呼び声高い吉見瑞希や、ファン対応の良さでファン投票の度に票数を伸ばしていた鹿島りほ、童顔でバラエティの現場でも笑いがとれる生田愛良などがささやかれていた。しかし、一部では本郷の太鼓判がある有利亜が、すべての前置きやストーリーをブッ飛ばして、その穴を埋めるのではないかと、半ば悲観めいた噂も触れ回っていた。

その当時、世間では都知事戦の最終盤に差し掛かっており、それでニュースが賑わっていた。遥の卒業や、ファン投票の話題は、確かにエンターテイメントの欄では常連であったが、この停滞する日本の首都のリーダーを決める差し迫った状況とは、余りにも乖離したLL-GIRLS内の話題は、その一点だけを見ても温度差を感じさせるものだった。LL-GIRLSの露出が増えるほど、逆にそれを疎ましく思う人間が増えるのも事実だった。喰わず嫌いという言葉があるが、人は先入観を意識的に排除しないと只々盲目であるのみである。

エンターテイメントが社会の中心的役割を果たす日は来るのだろうか?

エンターテイメントは、従来主産業の付属物にしか過ぎなかった。それは興行と呼ばれ、関わる人間の多くは裏社会と繋がっていた。それはその性質上、良いものは良いという絶対論理は通用しない世界のものであり、存在するためには、凌ぎや仁義を必要としたのだ。バブルが崩壊し、長く失われた時代も過ぎ、主産業、とりわけ重工業一極集中型の産業構造になると、片寄を分散させる動きが活発化する。農業や医療、新エネルギーといった産業の種は、その代替となる可能性が大いにあるだろう。しかし、興行はそれとは完全に一線を画する存在である。にも関わらず、近年の日本の興行の進化は目覚ましいものがある。それはインターネットの利用によって、日本の内的文化が容易に発信できることによる影響が大きい。これによって、興行を含むエンターテイメント産業は、付属物から脱却して、目的化しつつあるのだ。その中に、アイドルはいて、過渡期の生き残りをかけた最後の戦い、凌ぎが繰り広げられようとしていた。
そうは言っても、この業界の流れと、世間の流れはやはり逆行している。有利亜がニューシングルの宣伝で、取材を受けたときに、都知事選について聞かれる場面があった。有利亜にとって、それはまったく知らないことであり、それでもどうにか対応しようとした結果、
「都知事選ですか?社会は得意じゃないんで分かりません!でも、新しく知事になった人にも、このニューシングルを聴いてほしいです!」
それでその宣伝を報じたエンタメニュースサイトが炎上した。世間からすれば、確かに緊張感に欠けるコメントだったかもしれない。けれど、世の中の10才からすれば、ほとんど120点に近い出来だったとは、評価してくれないのだろうか?たった10才にして矢面に立たされるということは、それはそれだけで衝突を生じるに十分なのであり、どう贔屓目にみてもそれはネガティブな出来事しか生まないのは当たり前なのである。それを分かっていて、この業界の大人たちは、食い扶持を確保するために、金のための最善を尽くそうとするのである。善行を施すには金がいる、だが愚行を伴う金だとしたら、それに何の意味があるのだろう?
いかに一点だけを見つめて進めるか?鈍感という言葉ひとつだけでは到底表現しきれない痣とさが有利亜には求められていた。


ツアー中に、有利亜は、西島遥と一対一で話す機会が一瞬だけあった。それは、衣装替えのときで、コンサートの裏側のドタバタのさなか、刹那的に有利亜が入っていた衣装替え個室に遥が入ってきたのだった。時間のない中での、究極の判断だったのか、それとも意図的な事件だったのか。有利亜はいきなり入ってきた遥に、素直に驚いた。
「あ、有利亜!お邪魔しまーす!」
遥はそういうと、小さく敬礼した。
「遥さん。」
「ごめん、時間なくて、私の次の曲の振りあやふやだから、早く着替えなくちゃ。」
そう言うと、遥はそそくさと、持っていたセーラー服を模した衣装に着替え始めた。有利亜も次の出番が迫っており、残りの衣装を着ることに専念した。本当に短い時間、それはこのLL-GIRLSが存在しなかったら、そういう原初状態だったなら、絶対に居合わせることのない二人が、この狭い空間を共有する貴重な、奇妙な時間だった。

「ねぇ、笑っちゃうよね。23才にもなって、制服着てるんだよ?でも、それもこれで終わり、着たくなかったこれが、今度からは着たくても着れなくなっちゃうんだって、想像できないよね。この5年、ずっとこんなドタバタでやってきたから、それが無くなっちゃうなんて正直、想像できないんだよね。私、どうなっちゃうんだろう?」

独り言のように、しかし確実に、それは有利亜に向けて発せられたメッセージであった。表舞台の演者としての輝きの裏側に、遥は等身大の女性の思いを抱えていた。しかし、有利亜は何も答えることができなかった。そういう愛想というものを彼女は持ち合わせていなかったのだ。こんなに不器用に神さまは、なぜ彼女を御作りになったのか?
 西島遥についてファンの間で語られるのは、きっとその成長ぶりだろう。LL-GIRLS結成当時から在籍していた彼女は、最初は普通の、本当にどこにでもいる高校3年生だった。多少の人見知りと、夢想性と、日和見症候群が入り混じった悩める少女。しかしそれが、経験を重ねるにつれてどんどん、真のアイドルに近づいていったのだ。それを最後にはファンの誰しもが認めるところになったのだった。上一郎は、タレント・西島遥の底知れぬポテンシャルを見抜き、今まで見守ってきた。


「14位、鈴原有利亜。」


そう呼ばれたとき、有利亜は複雑な気持ちになった。自分の半身はもっと高い檀上に上がると思っていたし、もう半身はファン投票の順位について無関心を貫いていたからだった。傍から見れば、デビューしてから半年程度の短期間に5000票あまりの得票を得たことは評価に値するものであったし、そのほとんどが新規のファンだったのだから、LL-GIRLSに対する貢献で言えば上出来だったのである。それがマイク一本だけセットされている舞台上に上がったとき、なんとも言えない屈辱感と悔しさで一杯になり、ついに口をついて出てきたのは泣き言だったのだから、有利亜としては本当にこの14位という結果は、LL-GIRLSオーディション合格後の最初の大きな動機づけとしては十分すぎたのかもしれない。とにかく、人に負けるのは天地がひっくり返っても嫌なのだ。

「日本中の皆さんが、私、鈴原有利亜の名前を知らないことがなくなるように、私はこのグループで成長してみせます!」

 8月のファン投票イベントが終わり、秋の番組改編期にLL-GIRLSの初めての冠テレビ組と、冠ラジオ番組が同時にスタートした。テレビ番組の方は、司会に中堅お笑いコンビの“コウサテン”が抜擢され、毎回1時間コントやクイズ、ロケなどバラエティの基本を幅広く踏襲した形式のものだった。有利亜は、投票順位14位で、AA-GIRLS入りしていたからこの番組には頻繁に出演することになった。それで、ついに東京と大阪を行き来することが多くなり、学校の出席率が下がっていった。糸山啓太は、この往復に同行すると共に、他の10期生についてのマネジメント業務も絡み、一気に多忙になった。
ラジオ番組の方は、毎回LL-GIRLSグループから2人が選ばれてMCをするもので、これが毎日夜7時から30分間放送されるのだった。この放送後、ラジオではなくネット動画という形でフリートークを配信することも併せて行われる。この動画は、ラジオ配信地域外のファンも視聴することができ、しかも筋書のない自然なメンバーが見れるということで好評を博すに至った。それに大所帯のこのアイドルグループにとって毎日の日替わりでのラジオ番組は、露出の少ないメンバーにとってはほとんど唯一のチャンスとなった。
 その日有利亜は、昼にその冠テレビ番組“LLの気分”のロケがあり、夜に冠ラジオ番組“LL放送室”の生放送があった。立て続けのメディア出演は、これが初めてだった。この時の有利亜にとって、メディア出演の仕事はどちらかというと副次的なものであって、それはアイドルという仕事の本流とは違うものであった。
 LLの気分では、“サイコロケ”と題して、サイコロを振って出た目が指示する通りに街歩きロケをするというものだった。サイコロは立方体で、各面に「300m進め」、「右に曲がれ」、「左に曲がれ」、「近くの店に入って食レポ」、「近くの一般人にインタビュー」、「次の人に交代」と書かれており、この交代の目が出ない限り、食レポやインタビューを繰り返さないといけないというものだった。このある種のゲームは、チーム戦形式で、コウサテンの二人、つまり門持と持倉にそれぞれ一人ずつメンバーがペアになって、門持チームと持倉チームになって進行するというものだった。有利亜は持倉とペアで、門持とペアになったのは吉見瑞穂だった。
吉見瑞穂は、有利亜とはほとんど対極にあるような存在だった。東京出身の彼女は、どこからどう見ても都会的だったし、どんな動作・所作にも愛らしさがあって、アイドルという固有名詞を体現していた。アイドルと芸人が外でロケをする、それは芸能界というアルバムの中で非常に在り来りな一枚だった。半年前なら逆に液晶画面を通してしか見てこなかったこういう世界が、目の前で当たり前のように繰り広げられると、人は普通デジャヴに混乱するもの。どんな場面でも物怖じせず、自分の色を出せるか?それがこの仕事には大切であることを、有利亜は知らずに会得していた。だから、まるで生まれた時からコウサテンの二人や瑞穂と知り合いだったかのように、ズカズカと土足で踏み込むコミュニケーションをやり遂げることができる。それが有利亜が、まだ卵の段階であるにしろ、“スター”である所以なのだ。

 そのテレビ仕事の後、すこしの時間だけ有利亜は空き時間を与えられた。別にどうすることもなく、事務所が容易したミニバンの中で待機しているつもりだったが、次の仕事がなかった瑞穂が有利亜を誘ってくれた。
「ねぇ、あっちゃん。これから近くの服屋さんに行くんだけど、行かない?ちょっとの時間だけだから、問題ないと思うんだけど。」
瑞穂は、高1で都内の芸能科がある私立高校に通っている。平日の仕事のときは、だいたい学校を休むことが多かった。そんなことだから、クラスに友達は少なく、しかも今年の出席日数が必要数に足りなさそうで、留年するかもしれないという崖っぷちに立たされているのだった。
「私ね、グループのオーディションに受かる前は、学校でも暗くて、友達もいなくて、放課後はずっと家で引きこもってたの。それが、LL-GIRLSに成れたら人生変わるかもって、それでお母さんとお父さんにお願いして、1回だけならって受けたんだ。そしたら、見事、アイドルになれたってわけ。でも、アイドルになっても、友達はできなかったんだなぁ。人ってどこにいようが、どこで生きようが、結局変わらないってことなんだね。」
瑞穂が、鏡の前で服を合わせながら、有利亜にそう言ったとき、有利亜は椅子に座ってそれを眺めているだけだった。有利亜が想像していた、派手な部分の瑞穂とは対照的に、彼女が告白したその内面的な暗部は、何事も深く考えない有利亜にとっても意外なように思われた。しかし、ファンはそれもすべて承知した上で、瑞穂の人間的魅力を愛していたのだ。
「こういうの憧れてたんだ。友達と洋服屋さんでデート。それでも最近は、ずっとましなんだよ。同期の鹿島りほちゃんとか、山田美奈ちゃんとかとはすごく仲がいいし、やっと友達ができたんだって。でも、こういう一歩踏み出すのが中々できないんだよ。私、あっちゃんのことずっと見てて、なんとなく私に似てるところがあるなーって思ったの。たぶん他の人からしたら私たち全然違うように見えるけど、私は、あっちゃんとすごい似てると思うんだ。勝手にごめんね。でも、だから今日、仕事が一緒だって聞いてすごくうれしかった。今日のロケもすごくテンションマックスで、飛ばしまくったよ。本当にあっちゃんはすごいね。デビューして半年で、テレビで、しかも芸人さんとあれだけ喋れるんだもん。関西だからかな。それでも、やっぱりすごいや。」
「私も瑞穂さんのこと好きです。本当にアイドルの王道をいってる感じがするから。LL-GIRLSの5人の中に入れるってすごいことだって改めて思ったんです。」
今回のファン投票で、遥の代わりにLL-GIRLS入りを果たしたのは瑞穂だった。6位だった鹿島りほ、4位だった田中乙葉とはかなりの僅差で、半年後の投票ではどう順位が逆転するのかが今から話題になっていた。
「ありがとう。私たち仲良くできると思う。」
そう言って、座っていた有利亜の手を引っ張って、鏡の前に立たせて、そこにあった赤いワンピースを瑞穂は有利亜に合わせた。 「やっぱり、あっちゃんは、炎の赤がよく似合う。ファイヤー・イフリート・オベリスク・アリア!」


 夜のラジオでは、藤原結子とのペアだった。
「結子さん、ファン投票1位おめでとうございます!」
番組冒頭、有利亜はそう切り出した。それ以外にほとんど話題がなかったからだが、外仕事の忙しい結子にとってこのLL-GIRLS冠ラジオを聴いているファンに対して、ファン投票の結果を語る絶好の機会だったのかもしれない。
「ありがとう、でも、あっちゃんも14位だっけ?デビュー半年でAA入りはすごいよ。私なんか、2期生で入った最初の投票のときは、全員で30人くらいしかいなかったのに、25位だったんだよ?」 「そこから、1位になるってすごいと思います。私も結子さんみたいになるにはどうしたらいいですか?」
「ん〜、誰かになることってできないと思うけど、そうね、いっぱい笑って、ダンスもいっぱい練習して、まずはそこからかな。そしたら、段々ファンの人も増えてくると思うよ。」
「遥さんが卒業しちゃうじゃないですかぁ。結子さんは、その代わりにLL-GIRLSの顔になるんですね。私、いきなり遥さんが卒業しちゃって、LL-GIRLSがすっかり変っちゃうんじゃないかって思ってたんですけど、結子さんが代わりにグループを引っ張っていってくれるってわかって、安心しました。」
「はるちゃんは、あれで結構責任感あって、本当に今までLL-GIRLSを牽引してくれて、感謝してるんだ。その代わりが私にできるかどうかは、まだわからないけど、いや、できないかな。でも、私は私にできることを、私なりにやってみるつもり。たぶん、LL-GIRLSはそれで変わると思う、っていうか変わらなきゃだめだと思うんだ。あれ?なんか真剣な話になってない?あっちゃんの質問攻めは怖いわー。」

 同時期に本郷上一郎は、雑誌の取材で同じようなことを発言していた。上一郎は、言った。
「人はすべてを想像できるんです。逆に言えば、人が想像できることしかこの世では起こらない。だからこそ、僕たちは最大限世界を広げることができるように、想像し尽さないといけないんです。よく、スポーツ選手で“できることをやるだけ”っていう人がいるんですけど、それは分解すると、“できることは全てやらないといけない”っていうことだと思うんです。同じですよね。僕らも。」
変わらなければいけないグループに、その変化の前にどうしても通過しなければいけない壁があるように思われた。


「えーっと、ここでなにやらお知らせがあるみたいです。」
スタッフに渡された紙を、結子は番組の最後に読み始めた。
「私たち、LL-GIRLSは12月15日に、目標でもあった東京ドームでのコンサートを行いたいと思います。え?本当に!?うぁ、すごい。」
「え、本当ですか!?」
ラジオなのに、そのときばかりは、結子が有利亜に抱きついて喜んだ。東京ドームの収容人数は少なくとも5万人。これまでLL-GIRLSのライブが行われていた1万人程度の“箱”とはレベルの違う大きさだった。興行を行う上で、大きな箱で行うことは誰もが目指す目標なのである。
 この知らせは、直ちに公式サイトに掲載された。しかし、すべてのメンバーに直接この知らせがなされることはなかったため、発表後もしばらくは、しばらくメンバーのブログでは発表に歓喜する記事と、普段通りの記事とが入り混じった足並みの揃わない状況が続いた。

「なぜこの時期に東京ドームなのでしょうか?」
という記者の質問に、上一郎は、
「今やっとできることがあるってわかったからです。東京ドームライブはLL-GIRLSにとって必ず特別なものになるってことはわかってましたし、裏を言ってしまえば、それのタイミングが難しかった。でも、よく考えてみたら今しかないと思ったんです。現時点で最高LL-GIRLS、最も脂の乗った彼女たちを、最も輝かせることができる舞台になると思います。」
と言った。この裏で、プロモーターと上一郎との間の激しい論争があったことを、ファンやメディアは知らない。当初、プロモーター側は上一郎の提案した1日だけの開催に猛反対していたのだ。プロモーターだけではない、長年LL-GIRLSに携わってきた大手広告代理店・帝信も、この採算の合わないビッグイベントに乗り気ではなかった。しかし、上一郎の意見は揺るがなかった。
「記念日は2日も来ない。メンバーにとっても、ファンにとってもこの節目はたった1日、たった一瞬であるはずなんです。もちろん1日開催だからって手は抜きません。採算度返しでプロデュースします。それでも、やる価値はあると思っています。その日が過ぎたら、LL-GIRLSは本当に日本で一番売れているアイドルになる。このアイドルグループに係るすべての関係者が、その利益を被るはずです。」
上一郎は業界で数多くの失敗をしてきたが、それを帳消しにするくらい誰も成し遂げられない大きな成功を、幾つも積み重ねてきた。その信用が大人を動かすのだ。



「夢だったこの舞台で、私は卒業します。」
この遥の第一声で夢の舞台は幕を開けた。ファンの歓声が木霊する中、メインステージのセットが動き、徐々にその大仕掛けをあらわにしていく。それは、大きなケーキで、よく見るとそこにメンバーが全員立っている。それはこの日が誕生日みたいに、LL-GIRLSにとってひとつの記念日だということを表現していた。観客は、大きなセットに震えた。続く第一曲目は、ファーストシングル“目薬フレット”だった。歓喜のあまり泣き崩れる男たちもいた。現実世界の苦痛をすべて忘れさせてくれるこの夢の世界に、生きることへの喜びという形で享受することが出来れば、自然と自己を擁護する涙が流れてくるのものなのだ。誰もかれもが強く生きられるわけではない。こういう世界に浸らなければ、建前だらけの世の中を渡っていけない大人たちは大勢いる。むしろギリギリの綱渡りで、なんとか今日一日を生き延びている人々の方がこの世には多い。アイドルは、逆説的にその存在を証明しているのである。そして、それは取りも直さず社会の歪みなのだ。
 アンコール1曲目で、喫緊のファン投票で見事LL-GIRLSに選ばれた5人が新曲を発表した。“宇宙少女”に続くシングル曲“ナトリウム8mg”。有利亜は、その中に入れなかったという思いを初めて痛感した一瞬だった。そう、つまりこのグループで輝くには、あの5人にならなくてはならない、あの5人の誰かを蹴落とさなければならないのだと、その時初めて有利亜は次の目標を明確に心に抱いたのだった。



3月、ついに有利亜は小学校を卒業した。長い6年間だったが、父の死や、兄の非行、貧乏になったことが、幸せだった記憶を押し潰してしまっていた。今は、ただ自分の歩き出した道を納得するまで歩むことしかなかった。さらなる不幸もきっと自分の道の轍になる。中学に行ってもまた会える友達との束の間の別れに、多くの同級生、女子は感涙していた。保護者の中にもハンカチで涙を拭う姿があった。でも、有利亜は、中学校は東京の学校に進学することを決めたのに、涙のひとつも出なかった。自分の涙腺は枯れ果てたのかとも思ったが、この小学校生活になんの未練もないわけではないはずなのに、どうして自分はこの卒業式の雰囲気に浸れないのかを自分の性(さが)と結び付けて考えたくなった。自分はこういう人間だと、この時期は兎角そう考えがちだ。それが自我へと繋がっていく。
「有利亜、おめでとう。お母さん、久しぶりに感動したわ。本当に大きくなったね。」
「お母さん。」
卒業式のあと、校門前で、二人して今までの労を労い合った。それは母と子ではなく、まるで共に戦場に立つ同志のようでもあった。


「鈴原ぁ。」
「あら、ボーイフレンド?」
「ちゃうちゃう。」
そこには、鉄平がいた。最近はほとんど学校に行っていなかったから、顔を合わすこともなかったけれど、それでもほんの数週間という間に、こうも人は成長するかというくらい鉄平の表情、態度、動作は、ずっと大人びて見えた。
「お前、東京行くって、なんで俺に教えてくれへんかったんや。」
「なんで教えなあかんねん。」
「アホ。俺はお前のことがぁ・・・。」
「私のことが?」
その時、有利亜がどんな表情をしていたのかは、後になってもトンと思い出すことができない。鉄平のしくじった表情を鏡でひっくり返せば、それはそっくりそのまま自分の表情になったかもしれない。それくらい動揺した。
「それ以上言ったらあかん。てっちゃん。」
「馬鹿にすんな。俺はお前のことがすっ・・。」
有利亜は、鉄平の口を右手でふさいだ。
「言ったらあかんって。子供やないねんから。」
「俺は子供や!」
広い宇宙を考えたときに、こうやって鈴原有利亜を構成する物質が、塩栗鉄平という物質群の目の前に存在している奇跡を、確率論的に計算するのも嫌になるくらい、自然に信じることができるだろう。世界は本当に、ロマンチックにできている。ロマンチックにできていて、それでいて、少し目を離すとそれは心の弱い部分を容赦なく刺激するのだ。だから、そうならないように皆、それを避けるようにして80年余りの長い人生を平凡に平坦に生きていくために、荒波を避けるようにして生きていくのだ。そうでないと体がいくつあっても足りないくらい、人は感動に疲れ、もはや息もできないくらいに本当の地獄を味わうことになるのだから。
 鉄平はそれ以上のことを言うことができなかった。有利亜という女は、つくづく強情で、強い女だった。そして、自分の陳腐な法則にしたがって、周りに気を付けながら、気配りを忘れずに生きていく、そうやって兵隊のように生きていく女なのだと鉄平は思った。決して関わってはいけない。関わろうものなら、自分の心も、体も、何もかもが消耗し尽してしまう。誰しも薄っぺらな自分をこれ以上引き裂きたくないだろう。  



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