第8話 「アイランドウォーター」
有利亜は、小学校卒業後一人で上京した。母・里美は一緒に上京することを強く勧めたが、有利亜は決して譲らなかった。今は、東京の区立中学校に通いながら、事務所が借りてくれたアパートで独り暮らしをしている。高校へは行かないと、もうすでに決めてしまったから、中学校くらい学費のかかる私立へ行っても問題ないと里美は言ったのに、それも彼女は聞かなかった。今は里美が月に1回、様子を見るために上京することになっている。



有利亜は、普段部屋の片づけなどほとんどしなかったが、里美が上京してくる前の晩には、母親に心配させないように掃除をするようになっていた。とは言っても、有利亜の部屋には、ほとんど物がなかった。大きなもので言うとベッドと足の低いテーブル、小さな洋服箪笥くらいのものだった。冷蔵庫や洗濯機、テレビさえなかった。食事は、朝と夕方に事務所の食堂でするだけだったから、部屋で何かを食べることがなかった。事務所の食堂は、無料でご飯を食べることができたのである。学校では、何も食べなかった。一度、購買でパンくらい買おうと思ったことがあったが、100円200円の値札を見ても、安いとは感じず購買意欲が逆にそがれてしまったくらいだった。

「有利亜、ご飯くらいはちゃんと食べたほうがいいぞ。成長期なんだから、太ることなんて心配してたらダメだぞ。ファンだって、ちょっとくらいふくよかな方が、むしろ好感度がアップするんだから。」
啓太は、レッスン前に食堂でご飯を食べる有利亜の前に座り、そう言った。そう言う啓太自身、最近は食欲が減っていたのだが。
「そんなんじゃないんです。私が好きなアイドルできるのも、お母さんが大阪でパート掛け持ちしてやりくりしてくれるからじゃないですか。だから、ちょっとでも私がお母さんの負担を減らして、それで自分のやりたいことができるなら、それが一番いいかなって思って。」
正直、有利亜の給料では、自分の生活をギリギリやっていくだけで精一杯だった。
「最近、思ったんです。私がもっと売れて、遥さんや、岬さんみたいに一人で仕事できるようになったら、そのお金でお母さんに美味しいもの一杯食べさせてあげたいって。きっとお母さんなら言うと思うんです、有利亜にお金もらうつもりなんてないって。だから、せめて美味しい食事をプレゼントしたいなって。アイドルになった最初の頃はお金なんてぜんぜん考えてなかったのに、今は夢と同じくらいお金のことが大事だって思うようになったんです。」
啓太は、そうなんだとしか言うことができなかった。夢とお金の問題は、自分も解決することのできない永遠の課題のような気がしたからだ。
「さぁ、お腹いっぱい食べたし、レッスンに行ってきます。もうすぐ、定期公演が始まるし、頑張らないと。」
レッスン場は、食堂の上の階にあった。新宿5丁目の6階建ての小さな貸しビルが、丸々REPの事務所になっていて、4階にあるレッスン場は、3つに分かれていた。一つはLL-GIRL専用で、もう一つはREPに所属するお笑いタレントの稽古場、残ったもう一つは予備部屋として、多目的に使われていた。


 その翌日、里美は例によって朝9時ごろにアパートに到着した。
「有利亜、おはよう。お母さん、来たで。起きてる?」
上京してくる里美は、興奮気味だった。新幹線の始発に乗ってくるのだが、その途中で十分に睡眠をとることができるのだろう、余力十分といった風に部屋の隅々を散策して回った。そうやって、ちょっとでも片付いていないところを見つけては、念を入れて片づけだすのである。今日はたまたま、休みの日だったが、月によっては平日にやってくることもあり、そんなときは有利亜が学校に行っている間に、やることだけをやって娘には会わずに帰ってしまう。独立心の強い娘への最大限の配慮だった。
「お母さん、もう大丈夫やって。」
「そんなこと言うたかて、どうせあんたは、毎日も掃除してへんのやろ?すぐに埃がたまって汚くなってしまうからな。ほら見てみ、家が違えば埃の色も違うんやね。ここの埃は白いわ。」
「それより、お兄ちゃんは最近元気なん?」
「あんたの気にすることちゃう。あんたはあんたで頑張らなあかんねんから。」
そうは言いつつも、里美は亮太のことを話したそうだった。
「そういえば、もう卒業ちゃうの?」
「今年の春でな。最近は、なんか学校行ってるみたいよ。家にはぜんぜん顔見せへんけど、なんでも就職するって先生に言ったらしいんよ。笑えるやろ?ろくに学校も行ってへんかったのに、就職なんてできるわけないやない。ねぇ?」
そう笑って話す里美の横顔に、何か希望めいたものが見えた。
「へー、あのお兄ちゃんが、就職ねー。」


亮太は、その年の春中学校を卒業し、地元の工場で働くことになった。金属切削部品を作る会社だった。従業員は、3人だけ。いずれもその道60年のベテラン工だった。亮太は、金属のことも、切削のことも、それ以前に当たり前の知識すら知らなかったけれど、なんとかこのチャンスをものにしたいという一心で働き始めていた。
その日、亮太は旋盤を前にしていた。旋盤は、チャックで固定した加工物を高速で回転させ、バイト(切削工具)で円対称に切削していく工作機械だ。加工物によって、材料によって、様々な種類のバイトがある。バイトを加工物に当てるその当て方ひとつにしても材料との話し合いによって決まるのである。そして、ときには1ミクロン単位の無理な公差を要求されることもある。そんな場合には、もはや旋盤に示された目盛では役に立たず、わずかな切削面の光の反射率の変化によってのみ判断しなければいけない。NC旋盤等の自動機が発達した現代でも、このような熟練工の需要があるのは、こうした精密加工は結局のところ人の手によってのみしか生み出されないという理由による。世界に轟く日本の技術とは、真にこのような油まみれの老いぼれた手によってのみ下支えされてきたものなのだ。
「ほんなら、亮太。これ一辺削ってみい。」
旋盤を得意とする安田吉弥が、亮太に直径50mmの棒材と、図面を手渡した。亮太は、旋盤の使い方を一通り教えてもらっていた。でも、図面を基にその形を削りだすというところまでは、まだやっていなかった。
「安田さん、これどうやって見るんですか?俺、図面の見方がようわからんくて。」
「ええか、亮太。図面いうのはな・・。」
吉弥は、ひとつひとつ図面の指示するところを教えてやった。自分も最初はそうだったのだ。戦後のあの動乱の中、吉弥も食い扶持を確保するために、旋盤の前にたどり着いた。自分の生きる道はこれだと、そのひたすら金属がすれ合う機械を前にして思ったものだった。今、その歴史が亮太によって繰り返されようとしている。


「亮太、旋盤で生きていけ。お前の旋盤は必ずものになる。旋盤は裏切らへんねん。」


一つ一つその世界を知るごとに、人間は現実レベルで成長していくのである。しかし、ある一定のところで人は環境に適合し、それ以上の成長は難しくなる。そこから前へ進める人間と、そこで一生を終える人間の差は、もはや環境が決するのではない。亮太は、短かった学生時代とは変わってしまった環境に、いち早く適合しようと必死だった。中学校時代の悪友は皆、市内の高校へ進学してしまった。そこは高校とは名ばかりの、中学校のやり直しの場なのではあるが、彼らにとってはそうだとしても、高校という新しい環境は決して、中学のようなぬるま湯であるとは感じられないであろう。彼らの多くは、3年間を待たずして社会に飛び出してしまう。この世の中は、ずる賢く、楽をしたい者達が報われるようにできているのだ。



藤原結子は、その年のお正月に公開の映画「呪いのホテル」の撮影に参加していた。倒産したホテルで、繰り広げられる有りがちなホラー映画だったが、結子は主役の沖島めぐみ役に抜擢されており、それは劇中で唯一最後まで生き残るという役だった。実はこの映画には、結子のバーターで、鹿島りほも出演していた。しかし、りほの役は、劇中でも最初の方に幽霊に襲われて死んでしまうという役なので、早々に撮影現場を後にしたのであった。撮影は、高知県の実際のホテルで行われた。
「あ、結子さん。こんばんは。明日の朝で私撮影終わりなんで、東京帰りますね。」
結子もりほも、撮影中は実際にそのホテルで泊まっていた。その日の撮影が終わり、結子はシャワーを浴びてくつろいでいるところだった。
「そうなんだ、私は当分帰れそうにないわ。皆によろしくね。」
そう言った結子に、りほはにっこりほほ笑んだ。
「って言うのは口実で、ちょっと相談したいことがあったんです。入ってもいいですか?」
「あ、うん。どうぞ。」
結子は、撮影が長丁場とあって、大きなスーツケースと、ボストンバッグを持ってきていた。ボストンバッグは、特徴的な柄があるもののブランドものではなかった。一通りの着替えが部屋中に散乱していた。加湿器が置いてあって、静かに仕事をしていた。
「で、相談って何?」
「実は、まだ秘密って言われたんですけど、8月に私ソロライブすることになったんです。」
「え!?ソロで?どこでするの?すごいじゃん。」
「鶴見アリーナです。1万人の前で歌えることになったんです。」
「すごい!おめでとう!りほちゃんの夢は、歌手だったもんね。ソロでお客さん呼べるようになったってことは、グループ卒業後も歌手としてやっていけるんじゃない!?」
「でも、私ひとつ困っていることがあって。」
「何?」
「そのコンサートで、結子さんの“ショールとボレロの組曲”をやらせてもらうことになったんですけど、今一結子さんみたいに踊れなくて・・・。」
“ショールとボレロの組曲”は、上一郎が結子のために書いたソロ曲で、50万枚を超える売り上げを叩き出した結子の代表曲だった。
「そっか、でも。りほちゃんは、りほちゃんらしくやればいいんじゃない。何も、私に似せる必要はないと思うよ。」
「そうなんですよね。私は私なんで、結子さんのマネをする必要はないと思うんですけど・・・。」
と、そこで結子はずっこけた。りほは他人に相談をするような娘ではない。わが道を行くタイプ、ファンにもその独自路線が受けていた。5期生としてグループに入ってきた時から、彼女は他の娘とは違う輝きを放っていたのだ。
「で!?」
「で、結子さんに、サプライズゲストとして一緒に“ショールとボレロの組曲”をやってほしいんです。」
そのオファーは、事務所には話を通していない個人的なものだったが、結子は快く了承した。一曲だけなら、予定を無理やり合わせることもできるかもしれないと思ったからだ。それになにより、今まで他人に頼るなんてことがなかったりほが、自分を頼ってくれたことが素直に嬉しかった。
 今、LL-GIRLSの中では、前よりも意見が活発に出るようになっていた。それは、有利亜が参加した“μちゃんねる”で見たA:rcands comp.のプロ魂や、その他にもこの芸能界で活躍する多くのプロ達が、自分の意見を言うことで作品や実演をより良いものに変えていくという風習をLL-GIRLSの5人を初め、メディア出演機会の多いメンバーたちを筆頭に影響を受けてき始めていたからであった。LL-GIRLSも前のように、言われるがままに仕事をこなすだけでは、前に進めない。それを結子も痛感していた。


「とりあえず、警察に電話しましょう。」
赤毛が特徴的な沖島めぐみは言った。雑誌の編集者とあってさわやかな夏色のボーダーシャツに、ショートパンツという風通しのよさそうな格好をしていた。しかし、暗闇の中ではそのお洒落も無意味に近かった。廃墟特集で取材に来ていた。しかも、トイレに行くと言ってアシスタントの仁科れいが居なくなってから、すでに2時間が経過してしまっていた。
「電話が通じないぞ」
そう言ったのは、スタッフの時任健だった。時任は携帯電話で何回もコールしている。
「おかしいな、電波はあるはずなのに。」
「ちょっと気味悪いわ。今すぐここを出ましょうよ。」
めぐみは、立ち上がってそう言った。
「ドアが開かない。」
時任はドアノブをガチャガチャと言わせたが、一向に開く気配がない。その時、時任の携帯が鳴った。
「あ、着信だ。もしもし!?」
時任は、怪訝な顔をした。
「どうしたの!?」
「嫌、何も聞こえないんだ。無言電話。」
そのとき携帯電話がスピーカフォンになり、「ギ、ギ、ギ」という音が聞こえた。
「何の音!?」
それは、何か金属のすれる音だった。そして、どんどん大きくなる。
「ね、これ何の音!?」
「わからない。」
時任は首を振る。
「ギ、ギ、ギ・・・。」
「と、とにかく外に出よう。ドアを壊すしかない。」
時任はドアを蹴破った。そして、そこには針金で首をつられた仁科れいがいた。
「きゃあああああ!」
めぐみは、絶叫した。あの音は、今も仁科れいの首を絞めつけていく針金が捻じれていく音だったのだ。
「はい、カットォ!」
結子は、子供の頃から女優に憧れていた。物語の中の登場人物になることで、本当の夢を見たいと思ったからだった。でも、実際に芝居の世界をこうして体験してみると、技術的な部分で困難な部分が浮かび上がってきた。人のふとした瞬間の表情は、作り物では決して表現できない。


 その年の8月、LL-GIRLSの定期公演が始まった。LL-GIRLSの定期公演は全国主要都市8か所で、小さな劇場を借りて1か月間行われるものである。各メンバーは、ツアーと違って全国を回ることなく、一ヶ所で1ヶ月間同じ場所で公演に主演し続ける。たまにサプライズで、LL-GIRLSの5人が立ち代りで出演することがあったが、この定期公演はむしろAA-GIRLSより下位のメンバーが中心となって行われるものであった。そういうメンバーは、この公演を一年で一番大切にしていた。
 この年有利亜は、広島公演に参加していた。去年よりかは順位を落としたもののAA-GIRLS入りを果たした有利亜は、この公演で中心メンバーとして舞台に出続けていた。一回の公演で1時間半あり、それが日に2回ある。劇場を借りる都合で、毎日公演をするわけにはいかなかったが、それでもこの1ヶ月は、本当にステージの上でめまぐるしく時間が過ぎた。朝の公演が終わると、昼ご飯を食べ、午後の公演まで各メンバーは思い思いの時間を過ごす。多くは午睡の睡魔には勝てずに、控室で寝てしまうのだが、中にはダンスの振りを確認するものや、1ヶ月学校に行けないので勉強をするものもいた。有利亜は、珍しく教科書を開いていた。私立中学校とは違い区立中学校は出席日数と成績が足りなければ容赦なく留年させられる。有利亜は勉強は得意ではなかったから、教科書を開くのも嫌だったが、留年するのは御免とばかりに1ヶ月の間授業が進む範囲に目を向けていた。
「へぇ、勉強してるんだ。あっちゃんにしては珍しいね。」
話しかけたのは同じ10期の樫木絵里だった。
「珍しいって、どういうこと。まぁ、ちょっとだけだよ。ちょっとだけ。」
「勉強とアイドルの両立は大変だよね。」
「うん、でもまだ中学だから。絵里ちゃんは高校だから、もっと勉強も難しいんでしょ?絵里ちゃんの方が大変だよ。きっと。」
「何気に、あっちゃんとこうやって普通に話すの初めてじゃない?皆で話すときはあるけどさ。今度の定期公演であっちゃんと一緒の広島になれてよかったよ。最後に10期の皆一人ひとりと話しておきたかったんだ。」

「最後?」

「うん、私卒業することにしたんだ。来年の春には大学受験だし、勉強頑張らないといけなくて。このままLL-GIRLS続けても、メリットないような気がして。」
「そうなんだ・・・・。寂しくなるね。やっと、こうやって普通に話すことができたのに。」
「ありがとう。今度、ご飯行こうよ、皆集めてさ。10期会、やったことなかったよね。私ね、将来は普通にOLして、普通に結婚して、子供は2人くらいはほしいかな。海辺に家を建ててね。おばあちゃんになったときに、孫にね、私がアイドルだったことを話すんだ。この1年半が本当に自分の一番の挑戦だったって、孫に話すの。あの鈴原有利亜と同期だったんだよって話せるように、あっちゃんには頑張ってほしいんだ。」
その昼の公演で、樫木絵里は卒業を発表した。
「この1年半、実は苦しいことが多くて。ステージで笑顔で踊ってるよりも、レッスン場で泣いてるほうが多かったような気がします。応援してくださったファンの皆さんには、本当に感謝しています。私のアイドル人生が短くて、しかも少しも輝ける場所がなくて、皆さんには、本当に申し訳ない思いで一杯です。秋から、普通の高校生に戻って、大学進学のために勉強に専念します。アイドルはやめちゃうけど、私はこれまでと変わらず未来に向かって頑張っていくので、応援よろしくお願いします。」
その深々と下げた頭が、再び元の位置に戻ってきたとき大きな拍手が沸き起こった。アイドル・樫木絵里としての絶頂がこのときに初めて訪れたのかもしれなかった。


 鹿島りほのソロライブも終わり、9月になった。民放の大和テレビで10月からのクールでLL-GIRLSだけのドラマ「嵐と秋と女子」が放送されることが発表された。主役は、吉見瑞穂だった。学園ものの話で、女子高生たちが抗争を繰り広げるというなんでもありのドラマだった。そして、瑞穂のライバル役として選ばれたのが、10期の本条みゆきだった。全10話のうち、全編で出れるのはLL-GIRLSの5人と、瑞穂、りほ、そしてみゆきの8人だけだった。この大抜擢で、糸山啓太が猛烈なアピールをしたことは言うまでもない。女優志望だったみゆきのことを考え、演技未経験にも関わらず大和テレビのプロデューサーに掛け合ったのだった。“μちゃんねる”のあの一件以来、啓太の仕事に対する姿勢は徐々に前向きになりつつあった。人は小さな成功体験を繰り返すことで、成長する。
「本当に、ありがとうございます。」
「え、どうしたの?」
あえて素知らぬふりをする啓太に、みゆきは深々と頭を下げた。その日は休みだったにも関わらずみゆきは、事務所に足を運び、感謝の気持ちを伝えたのだった。
「糸山さんが、今度のドラマに私を推薦して下さったんですよね?大和テレビのプロデューサーさんから聞きました。私が女優志望だったこと、知ってくださったんですよね?」
「ああ、でも、大和のプロデューサーさんがさぁ、ぜひまだ顔が売れてない新人をライバル役に抜擢したいって言ってたんだよ。で、みゆきがいいんじゃないかなぁと思って。でも、まだお礼を言われるわけにはいかないよ。ドラマを成功させてもらわないと。頑張ってね。」
さっそく撮影が始まったとき、みゆきは暫くNGを連発してしまった。なかなか現場の雰囲気に慣れることができなかったからだった。
「みゆぽん、大丈夫だよ。そんなに心配しなくても。」
結子は励ました。結子の役は、その学園の卒業生だった。まだ撮影序盤なのに、この調子だと先が思いやられた。
「すみません。本当に。」
みゆきが、ようやく慣れたのは1話分の撮影が終わった後だった。
 このドラマが面白いのは、視聴者の意見をストーリーに反映するシステムを採用していることだった。毎回放送終了後に、番組公式ホームページに掲示板が設置される。そこで視聴者同士が自由にドラマについて話し合うのだ。とは言っても、ほとんど脚本家が最終話まで台本を書いているので、大幅な変更をするつもりはなかった。しかし、このシステムは視聴者参加型の典型例であり、話が進むにつれて、視聴者の意見が取り入れられる部分が増えていき、それに伴って深夜枠にも関わらず視聴率も上昇した。
 第5話は、有利亜の登場回だった。有利亜の役は、みゆきの手先として、瑞穂を倒すように命令される刺客の役だった。有利亜は、前日に台詞を完璧に入れてきており、ほぼノーミスで撮影を終えてしまった。ただ、その役が有利亜とは合っておらず、多少の不自然さは残ってしまった。でも、彼女にとっても初めてだったドラマ仕事の経験は、女優業に対する魅力を感じさせるに十分だった。
「みゆぽん、撮影なれた?」
「うん、やっとね。あっちゃんは、すごいね。初めてで一回もNG出さないなんて。私なんか初めては、NGばっかりだしちゃって。そういえば、絵里が10期会に参加するって言ってたよ。カメラ入るからどうかなって心配してたんだけど。」
10期会は、事務所主導で開催されることになった。カメラが入り、その映像は次回のシングルの特典映像に付されることになっていた。
 ドラマの人気と共に、みゆきの知名度も急上昇した。毎週ドラマの後の急上昇検索ワードに“本条みゆき”がランクインしていた。これは、プロデューサーの狙いが当たった結果だった。無名のメンバーを重要な役に抜擢することで、今の時代視聴者はネットでそれを検索する。検索数が増えれば、話題になり、ドラマの視聴率が上がるというスキームだった。みゆきの役柄名“長谷場キラ”もよく検索された。そして、みゆきはその後、しばらく“キラ”と呼ばれることも多くなった。
“嵐と秋と女子”の最終話。脚本はすでに結末部分について変更なく撮影が進められていた。ただ、視聴者の多くは、続編での“キラ”の活躍を望んでいた。主人公は、瑞穂演じる“四季ひろみ”なのに、結末でライバル役が勝利するのは物語上おかしい。それはプロデューサーとしてもできない相談だった。しかも、この視聴者参加システムは、当初から物語のあらすじを大幅に変更する意味合いを持ち合わせていなかった。しかし、視聴率が好調なのと、スポンサーが続編も承諾している経緯から、“キラ”勝利という結末も無しではないという状況ができてしまっていた。
「はいカットォ。」
最後のシーンを撮り終えたときに、プロデューサーの渡橋道夫は監督と出演者、スタッフを集めた。
「すみません、最後のシーンなんですけど、もうワンテイクとってもらいたいんです。脚本はすでに書いてもらってます。」
みゆきがその薄っぺらい脚本を見たとき、監督が驚いた声を上げた。
「“キラ”の別パターンじゃないですか!?」
「ええ、ちょっと両方撮って、納得の行く方に決めたいと思っています。スポンサーの意見も聞きたいですし。お願いします。」
みゆきは、正直に“キラ”勝利パターンの採用を望んでいた。自分の初めて出演したドラマが世間で好評を受けていることも知っていた。そして、自分の演技、“キラ”が評価されていることも知っていたのだ。だから、余計にこのまま終わりたくないという気持ちが強かった。

 後日、渡橋はスポンサーに両パターンを視聴してもらった。スポンサー側は両方のパターン共に捨てがたいと述べ、どちらでも放送していいと言った。そうなると渡橋も困ってしまった。最終判断をスポンサーに任せるつもりでいたからだ。そこで渡橋は、本郷上一郎の意見を聞くことにしたのだった。渡橋と本郷は、大和テレビでも一緒に仕事をしたことがある仲だった。業界歴は本郷の方が10年ばかり長く、渡橋は今回のLL-GIRLSだけのドラマという企画を本郷にも相談しながら決めているという経緯もあった。
「視聴者が望んでいるのは、こっちだろうな。」
上一郎は、“キラ”パターンを見終わった後にそう言った。
「でも、物語としては“ひろみ”が勝つしかないわけだ。俺ならひろみのパターンをとるよ。今仮にキラを選んだとして、後で後悔するのは目に見えてるでしょ。この話はキリよくここで終わらせるのが正解だと思うな。キラパターンは、次回シングルの特典映像にでも使わせてくれよ。それでいいだろ?」
渡橋は上一郎の意見に従うことにした。


 その日は、みゆきがLL-GIRLSの冠番組“LLの気分”に出演する回のロケだった。よく晴れた昼下がり、東京の下町で撮影が行われた。みゆきの相手は、LL-GIRLSのリーダー、田中乙葉だった。乙葉は、この番組に最多出演しており、お笑いコンビ“コウサテン”の2人とも打ち解けていた。
「乙葉さん、私、食レポとかやったことなくて、今の大丈夫でした?」
テープチェンジのタイミングでみゆきは、乙葉に聞いた。慣れないバラエティ番組で、みゆきは焦っているのか、顔に血の気がなかった。
「大丈夫、大丈夫。何言ってもコウサテンさんが拾ってくれるから、心配ないよ。みゆぽん」
「でも、乙葉さんのコメントが上手なんで、私のコメントが浮いちゃうんじゃないかなぁと思って。」
「私のコメントが上手いかどうかは別として、食事のコメントをするときは、3つについて言えばいいの。つまり、色、味、食感。例えば、リンゴだったら、うわー赤―い、食べてみますね?あ、甘い!ジュクジュクって果実が染み出してきます!みたいな感じかな。で、どうしても、コメントに困ったら、連想ゲーム」
「連想ゲームですか?」
「そ。リンゴだったら、赤だから、イチゴとか、桃とか。だから、イチゴみたいに甘くて、桃みたいにジューシーとかね。何かに例えるときに、とりあえずなんでも連想ゲームみたいに頭に思い浮かべておくと便利なの。」
乙葉のすごいところは、自分の経験を人に伝えることができるということだ。乙葉はいつでもグループの先陣を切って外仕事をしてきた。それゆえに、仕事のやり方を自身の体に蓄積し、今度はそれをグループ全体に伝達する役目を担っていかなければならなかった。上一郎は、乙葉のことを「LLの良心」と言っていた。結子でも、最年長の山口真紀でもなく、乙葉がLL-GIRLSのリーダーであるのは、乙葉のそういう周りを見渡すことができる目を、上一郎が買っているからだった。
「そういえば、見たよ。“嵐と秋”の最終回。“キラ”結局負けちゃったね。私は“キラ”が勝つパターンの方が面白いと思ったんだけどなぁ。」
ロケの後、みゆきと乙葉は、近くの喫茶店で話をしていた。LLの気分のロケの後、メンバーはよく遊びに行くことが恒例となっており、その様子をブログや公式SNSサイトで公開するのをファンは楽しみにしていたのだった。アイドルという仕事の厄介なのは、こういうオンとオフの区別がまったくないところだろう。逆に言えば、生活のすべてが仕事に、チャンスに繋がっていくのだ。
「ありがとうございます。でも、本郷先生が結局、あっちの方を選ばれたって聞いてます。先生がそういうんだから、仕方ないですよね。でも、次回作があったらまた出たいです。私女優志望なんで、初めてドラマ出させてもらって、本当にうれしかったです。」
「いいなぁ、ドラマ。私なんか“嵐と秋”でもかなりチョイ役だったからなぁ。まぁ、他のメンバーよりも出させてもらってるんだけどね。まぁ、そうか、次回作あるかもね。でも“キラ”はやられちゃったからなぁ。そうだ、こういうのはどう?ほら、よくあるじゃん?脇役を主人公にして、サイドストーリーみたいなの。」
「スピンオフですか!?」
「そうそう、スピンオフ!それを“キラ”でやったら面白いと思うんだよね。キラがあの学園に転校してくる前に何があったのかをドラマにするの。」
「面白そうですね!」
笑い話として、みゆきは同調した。
「電話してみる!これいけると思うの。」
「え?誰に電話されるんですか?」
乙葉は、鞄から携帯電話を取り出し、手際よく電話しだした。そして、軽い調子で話した後、その通話をみゆきに代わった。
「本郷先生、みゆぽんと話したいって。」
みゆきは驚いた。みゆきにとって上一郎は遠い存在なのに、乙葉にとっては友達のように近しい存在なのだから。
「田中から聞いたよ。まぁ、今回は残念だったな。面白いと思うよ、スピンオフ。テレビじゃなくてもいいなら、ネット動画でやってみてもいいと思うんだけど、本条はやる気ある?」
「あります。やらせてください。ありがとうございます!」
みゆきは、感激して、立ち上がっていた。 



 11月になり、LL-GIRLSの11期生のお披露目が行われた。人数こそ多かったが、10期と比べると個性が足りないと言わざる負えなかった。その数日後、10期会が開かれた。
「10期の皆の夢が叶いますように!乾杯!」
権田理沙が乾杯の音頭をとった。
「11期も入ってきたし、勢いに負けないように頑張っていこう!」
とは言っても、今のところメディアに出演したのはみゆきと有利亜の2人だけだった。すでに絵里も辞めてしまったし、先行きは不安だらけだった。
「私はとりあえず、ファン投票で30位以内にランクインすることが目標かな。」
そう言ったのは理沙だった。彼女のダンスはグループ内でも定評があったが、今一固定したファンがついていなかった。
「そうだ、今日はサプライズがあります!」
登場したのは、ケーキだった。その日は、三井さくらの誕生日だったのだ。
「さくらちゃん、誕生日おめでとう。」
「ありがとう。こんな大きなケーキ、初めてだよ!」
「はい、ここで、一番仲の良かった絵里から手紙を読んでもらいます。」
絵里は立ち上がって、手紙を読みだした。
「さくらちゃん、誕生日おめでとう。私はアイドル卒業しちゃったけど、さくらちゃんはこれからも自分の夢を目指して頑張ってください。体調にも気を付けてね。思えば、最初に話をしたのも、さくらちゃんでした。さくらちゃんは、私よりも先にグループに入っていて、右も左もわからない私にいろんなことを教えてくれたね。そして、さくらちゃんのLL-GIRLSに対する思いは、誰よりも熱いってことも分かりました。これからは一ファンとして、三井さくらを推し続けます。誕生日本当におめでとう!樫木絵里より。」
さくらは、本当にうれしかったのか、顔を真っ赤にして泣いていた。自分が頑張ることで、他人を勇気づけられるなんて本当は誰も思ってはいないのだ。さくらの頑張りは、確かに絵里に届いていた。

 



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